録らない議事録

社員相談室の葛城玻璃は、テープの入っていないカセットレコーダーを必ず机に置く。

生成りのパンツスーツ、赤い革靴、爪ほどの古い録音機。相談者が口を開けずにいると、再生ボタンを押す。中から聞こえるのは、からから回る空音だけだ。

「記録は人を守ってから残す」

月岡依子は、その言葉を三度聞いてから、ようやく自分の相談をした。

上司から深夜に個人的なメッセージが届く。断ると翌日の会議から外される。露骨な言葉はなく、評価も数字上は下がっていない。依子は「この程度」と笑おうとしたが、声がうまく出なかった。

「正式に訴える覚悟は、まだありません」

「覚悟を料金にする制度は欠陥品だ」

「でも、記録がなければ何もできませんよね」

玻璃はレコーダーの蓋を開け、空であることを見せた。

「今の話は録っていない。まず、あなたがどこまで残すか決める」

彼女は白紙を三つに分けた。残したい事実、まだ残したくない事実、会社にしてほしいこと。依子は送信時刻と会議から外された日だけを書き、文面の内容は伏せた。

玻璃はそれで十分だと言った。同じ部署の会議出席記録と、時間外連絡の発信数を匿名で調べれば、個人を名指しせずに運用監査を始められる。相談者の名前は、本人が望むまで出さない。

「そんな回り道で、変わりますか」

「最短距離は、たいてい被害者の上を通る」

監査が始まると、深夜連絡は全社で禁止され、会議参加者の変更理由を残す仕組みができた。上司が何を言われたか、依子には知らされなかった。それでよかった。

一週間後、玻璃は新しいカセットテープを一つ差し出した。ラベルには日付だけがある。

「証言を録るんですか」

「違う。あなたが消したくなった時、自分で上書きできるように渡す」

録音機は証拠を奪う道具ではなかった。話した人へ、記録の鍵を返す道具だったのだ。

依子がテープを受け取ると、玻璃は初めて停止ボタンを押した。

「記録は人を守ってから残す。残さない権利も、今日から私たちの担当だ」