雨の日だけの文字

蓼沼玲吾と彼女の交換日記は、雨の日にしか動かなかった。

始まりは梅雨の初日だった。傘立てで取り違えた透明傘を返すとき、彼女が持ち手に小さな紙を結んだ。

――次は名前を書いてください。

玲吾はその裏へ返した。

――傘に名前を書くと、盗られたとき恥ずかしい。

次の雨の日、透明傘の袋に薄いノートが入っていた。

――では、ここに書いてください。

晴れの日は、ノートを持っていても書かない。それが二人の決まりになった。教室ではほとんど話さない。彼女は窓側、玲吾は廊下側。雨が降れば傘立ての奥でノートを交換した。

――今日の雨は細い。

――体育が中止で助かった。

――濡れた上履きは最悪。

――昇降口の屋根、右端だけ雨漏りしてる。

七月に入り、晴天が続いた。

ノートは玲吾の鞄に九日間眠った。書きたいことは増えた。数学の追試。球技大会。彼女が髪を切ったこと。けれど空は毎日青く、決まりを破る理由がなかった。

十日目の朝も晴れていた。

昼休み、彼女の机が空だった。友達の会話から、熱を出したと知った。

玲吾は窓を見た。雲一つない。

放課後、傘立てへ行き、自分の透明傘を開いた。水道で少しだけ濡らそうかと考えた。あまりに馬鹿らしくてやめた。

代わりにノートを取り出し、初めて晴れの日に書いた。

――今日、雨が降らなかったので、決まりを破る。

――髪、似合っていた。

――早く治って。

――返事は雨を待たなくていい。

彼女の下駄箱へ入れようとして、手が止まった。欠席しているのだから、読めない。

玲吾はノートを持ち帰った。

翌朝、校門の手前で一粒、頬に当たった。

空は明るいのに、細い雨が降り始めた。

昇降口へ走ると、彼女が傘立ての前にいた。マスクをし、閉じた傘を持っている。

「雨、降ったね」

学校で初めて、彼女から声をかけられた。

玲吾は濡れていないノートを差し出した。

「昨日、もう書いた」

「晴れてたのに?」

「予報が外れた」

彼女は頁を読み、マスクの上で目を細めた。それから玲吾の鉛筆を借り、立ったまま返事を書いた。

――髪のこと、気づくのが遅い。

――でも、ありがとう。

――次から晴れの日も書いてよい。

最後の一行だけ、雨粒で少し滲んだ。

その日から二人の日記は毎日動いた。

けれど玲吾がいちばん覚えているのは、決まりを破った晴天ではなく、傘を開くほどでもない雨の中で、初めて文字より先に声を聞いた朝だった。