雨の日だけ増える文字

牧瀬伊織が通う喫茶店には、窓際に古い詩集が一冊あった。雨の日にだけ開くと決めていたのは、失業してから晴れた街を歩くのが少しつらかったからだ。

伊織は勤めていた雑貨店の閉店で職を失った。友人には充電期間だと言ったが、面接へ落ちるたび、晴れた空まで自分だけを急かしているように見えた。詩集には以前から鉛筆の感想が少しあり、新しい文字も昔の持ち主のものと思おうとした。けれど「昨日より靴が乾いている」と書かれた日、見られていると確信した。怖さより先に、誰かが昨日を覚えていたことが嬉しかった。

六月のある日、〈濡れた靴でも帰れる場所はある〉の横に「乾けば、また歩ける」と青黒い文字が増えていた。次の雨には「急がなくていい」。誰かが伊織の読む頁を知っている。

候補は、店主の鹿島、向かいに座る写真家の鵜飼、軒先を借りて傘を直す宮前だった。

手掛かりは三つ。書き込みには万年筆の耐水インクが使われている。頁の間には傘修理用の青い糸が一本。そして「骨が曲がっても布は替えられる」という比喩は、傘職人でなければ選びにくい。

鹿島は客の本へは書かない主義で、鵜飼の筆跡は大きなブロック体だった。二人とも否定しながら、宮前の作業台をちらりと見た。店の誰もが秘密を知り、伊織が自分で辿り着くまで黙っていたらしい。その沈黙まで、押しつけない親切の一部だった。

次の雨、伊織は詩集を閉じたまま宮前の手元を見た。彼は観念して、細いペンを作業箱へ戻した。

春の嵐の日、伊織は店先に散った彼の濡れた注文票を拾い、ドライヤーで乾かした。消えかけた電話番号が残り、大口の修理依頼を失わずに済んだという。

「お礼を言おうとしたら、あなた、次の日からずっと履歴書を見ていた。励ますのも失礼かと思って」

だから詩人のふりをした。

伊織は笑った。「詩人にしては、部品の話が多いと思いました」

「そこが限界でした」

宮前は、破れた詩集の背もついでに直していた。新しい糸は、傘と同じ青だった。

その午後、伊織の携帯に面接の日程が届いた。まだ採用ではない。それでも、送信された文面を宮前に見せた。

鹿島が出した熱いココアを一口飲む。甘さの向こうで、雨が少し弱まった。

「歩けなかったら、また直してください」

宮前は傘の骨を鳴らした。

「修理できるところからなら」