雨の降らない復旧費

水都の仮面舞踏会で、アルシャン公子は音楽を止めさせた。

「河川復旧費一万金貨をベアトリサが横領した。洪水対策を任せた結果がこれだ。婚約を破棄する」

彼の従者が、復旧事業の契約書を広げる。署名欄にはベアトリサの名があり、支払済みの青い文字が浮かんでいた。

仮面の下で人々が笑う。水都では今年、一滴の大雨も降っていない。存在しない災害から金を抜くとは、いかにも悪役令嬢らしい、と。

ベアトリサが堤防を補修したから水害が起きなかった、という可能性を誰も考えない。成果が「何も起きないこと」である仕事ほど、失敗の濡れ衣を着せやすいのだと、彼女は今さら理解した。

ベアトリサは自分の仮面を外した。

「契約書を最後の頁までお読みになりましたか」

「言い逃れは不要だ」

「では、その一枚に判断してもらいましょう」

水都侯ネレウスが進み出て、契約書の末尾へ指を置いた。水都の公共契約は一枚の羊皮紙に全条件が刻まれ、破られても文字が移る。これが唯一の原本だった。

末尾の条項が、水色に輝く。

――水位標が赤へ達しない年、積立金は自動的に王家預託口座へ返納される。

――返納後の引出人、アルシャン・ヴォーデ。

契約書そのものが、金の流れを示した。

アルシャンは仮面を取り落とした。

「王家のために一時的に借りたのだ。お前の署名がある以上、夫婦で責任を負えば――」

「まだ夫婦ではございません。そして、もうなりません」

ベアトリサは契約書の署名を見つめた。彼女が署名したのは、街を守るためだった。彼の浪費を守るためではない。

「婚約破棄を撤回する」とアルシャンが早口で言う。「お前の評判も元に戻してやる」

「私の評判を壊した方から、返していただく必要はありません」

彼女は仮面を床に置き、アルシャンへ背を向けた。

ネレウスは運河へ続く露台で、濡れてもいない手を差し出していた。新しい堤防計画へ参加するか、選択を委ねる手だった。

ベアトリサは雨の匂いのない夜気へ踏み出し、その手を取った。