雨量ゼロの犯行時刻

椹木薫刑事は、閉庁後の資料室で一冊の来署者名簿を開いた。

十三年前、戸室颯は公園で会社員を刺したとして懲役刑を受けた。犯行時刻は午後九時十五分。戸室は「その時間は交番で盗難届を書いていた」と訴えたが、名簿には九時四十二分と記され、虚偽のアリバイとされた。

数字の《4》だけ、インクがにじんでいた。欄外には当時の当直責任者、矢萩敬士の字で《降雨のため判読困難、本人確認により訂正》とある。

椹木は赤外線スキャナーへ頁を置いた。上書きの下から、《12》が浮かんだ。

九時十二分。犯行の三分前だ。

背後で鍵が回った。矢萩は今や県警本部の参事官で、再審対応の責任者でもある。

「古い水性インクだ。雨粒で流れ、後から正しただけだ」

椹木は気象台から取り寄せた観測表を机へ置いた。交番周辺の降雨開始は九時三十一分。九時十二分の紙が濡れるはずはない。

「戸室は名簿を書いたあと、待合椅子で二十分待たされたと供述しています」

「時計の見間違いだ。交番時計が遅れていた可能性もある」

「名簿と一緒に綴じられた盗難届には、戸室の署名と《二十一時十四分受理》の受付印があります。受付した巡査は、戸室が九時半まで椅子にいたと、退職前の聴取で証言しています。同じ頁の自動受信FAXも九時十三分。時計は一致します。被害者の通報は九時十六分です。ここから公園までは走っても十二分かかる」

矢萩は声を低くした。

「訂正したのは私だ。だが、あの男が無実だと決まったわけではない。これを出せば、お前は上司を陥れるため証拠を加工したと逆に告発されるぞ」

椹木は知っていた。名簿を持ち出せば規程違反、残せば明朝には保管期限切れで溶解処分される。

彼女は頁を切らなかった。帳簿ごとスキャナーへ通し、赤外線画像、気象記録、FAX時刻を一つの報告書へ添付した。

原本保全のため資料室を封鎖し、電子鍵の管理者を自分へ変更する。

最後に再審係への送信を押すと、雨の降っていない夜の《九時十二分》が画面いっぱいに残った。