頬に何も塗らない日
日下部瑠佳は、休日にも四十分早く起きる。
左の頬にある赤紫色のあざを隠すためだった。補色の下地、固いコンシーラー、ファンデーション、粉。順番を間違えると色が浮く。宅配便を受け取るだけの日でも、玄関の鏡の前で同じ層を重ねた。
隠し方は上達した。けれど上達するほど、素顔でできないことも増えた。ごみ出し、近所の自動販売機、ベランダで洗濯物を干すこと。誰にも会わない可能性より、一人に会う可能性を大きく見積もった。
日曜の朝、冷蔵庫には牛乳しかなかった。近所のパン屋では十一時まで、焼きたてのシナモンロールを出している。瑠佳は洗面台に道具を並べ、コンシーラーの蓋を開けた。
底が見えていた。細いブラシで角をさらっても、片頬を覆う量には足りない。
買い置きはない。化粧品を先に買いに行くには、あざを隠す化粧が必要だった。
瑠佳は鏡の前で立ち尽くした。昨日までなら、フードと大きなマスクを着けて遠い店へ行っただろう。夏でも頬に汗が溜まり、帰宅すると皮膚がひりついた。
指先であざの縁をなぞる。重ね続けた化粧で乾燥し、薄く皮がむけている。瑠佳は空の容器を振り、もう一度蓋を開けた。それから、ブラシを洗面台へ置いた。
顔をぬるま湯で洗い、保湿剤だけを塗る。玄関では帽子もマスクも手に取らなかった。鍵を回す音が、やけに大きく聞こえた。
パン屋まで三分。向かいから来た犬が瑠佳の靴を嗅ぎ、飼い主に引かれていく。信号は一度赤になった。ショーウィンドウに横顔が映ったが、瑠佳は歩幅を変えなかった。
視線らしいものを感じるたび、確かめたくなった。振り返れば、本当に見られていたか分かる。けれど分かったところで、朝をやり直せるわけではない。瑠佳は青信号だけを見た。
店内には甘い香りが満ちていた。店員はあざではなく、トングの先を見て「今、焼けたところです」と言った。瑠佳は一つだけ取り、紙袋を受け取る。
帰宅して鏡を見ると、頬の色は出かける前と同じだった。何も治っていないし、急に好きにもなれない。
それでも、紙袋はまだ温かい。
瑠佳は化粧を始めず、頬に湯気を受けながら最初の一口をかじった。