額縁の裏の署名
桐生絹代は、詩乃の実家から贈られた小さな絵を物置へ追いやった。
「暗い色ばかりで縁起が悪いわ。無名の画家の絵なんて、客間には掛けられない」
詩乃は何も言わず、額縁だけ丁寧に布で包んだ。祖父は孫娘の結婚祝いに、世間へ発表していない作品を選んだ。青い森の奥に小さく描かれた白い鳥は、詩乃の幼いころの呼び名を示している。絹代は説明を最後まで聞かず、「処分代がかかる」と笑っていた。
数か月後、絹代は慈善美術競売会へ出席することになった。名士が集まる会で、彼女は詩乃を荷物持ちとして連れていった。
「あなたは美術なんて分からないでしょうけど、黙っていれば恥はかかないわ」
会場中央には、物置の絵とよく似た青い森の大作が飾られていた。競売が始まると、価格は一億、三億、五億と跳ね上がった。絹代は急に知ったふりをして、隣席へ「私も青嶺を一枚持っているかもしれない」と囁いた。詩乃は訂正しなかった。持っているのは絹代ではなく、贈られた詩乃自身だった。
絹代は目を丸くした。
「鳳青嶺って、そんなに有名なの?」
隣の収集家が驚いて振り返った。
「二十年前に筆を折った幻の画家ですよ。鳳財団の創設者でもある。作品はほとんど一族の所蔵です」
落札の槌が鳴る前、司会者が壇上から告げた。
「本日の収益は、鳳文化財団新理事長、桐生詩乃様のご意向により、若手芸術家の支援へ全額寄付されます」
スポットライトが詩乃を照らした。
絹代は椅子から立ち上がれなかった。鳳家は美術館、出版社、映像会社を所有する世界的な資産家一族。青嶺は詩乃の祖父だった。詩乃が姓を公にしなかったのは、作品を見る目と家名への態度を分けたかったからである。
詩乃が壇上へ向かうと、競売人が小声で尋ねた。
「ご自宅にある《雨の前の森》も、来季の回顧展にお借りできますか」
詩乃は絹代を見た。
「義母が気に入らなかったので、物置にあります」
会場が静まり返る。
鑑定責任者が息をのんだ。
「《雨の前の森》は青嶺最後の一点です。保険評価額は十二億円ですが――」
詩乃は微笑み、壇上の理事長席に座った。
絹代は、自分が『無名の絵』と呼んだ額縁の裏に、鳳家の署名があったことを思い出した。