骨格標本は知哉
脇坂知哉は、理科教材会社の棚卸しで母校を訪れた。二十六歳。廃棄対象の骨格標本には管理番号がなく、台座の裏へ古い墨書があった。
《理科室の骨格標本に、人の名前を付けてはいけない》
郷土資料によれば、学校が建つ前、この地区では身元不明の骨を寺へ納めるまで仮の名で呼ばず、「誰でもない者」として扱った。名を与えると、その骨が代わりに名の持ち主を名なしへ戻すと考えられていた。
知哉は棚卸しアプリで《名称未登録》のまま進めようとしたが、システムが保存を許さない。担当者へ電話しても繋がらず、締切はその夜だった。
「じゃあ今日だけ、知哉で登録するか」
知哉は冗談を言い、一度だけ自分の名を入力した。
保存音が鳴ると、標本の顎が閉じた。アプリのカメラが自動起動し、骨格標本の頭蓋骨を顔として認識する。
《脇坂知哉さんを検出しました》
知哉が自分へカメラを向けると、《人物ではありません》と出た。登録を削除しようとしたが、編集権限は標本側へ移っている。骨格標本の指には、いつの間にか知哉の社員証が掛かっていた。
校舎を出る前、棚卸しアプリから作業完了メールが届いた。廃棄品は零、継続使用一体。担当者欄には骨格標本の写真が社員証用に切り抜かれ、知哉の署名まで添えられていた。備考は《軟部組織を校外へ搬出》だった。知哉が自分の腕を撮影すると、アプリは人体ではなく梱包材として輪郭を囲んだ。
彼は社員証を取り返さず、理科室を出た。翌朝、会社では顔認証ゲートが開かない。警備員は端末を見て、「脇坂さんは昨夜から旧校舎に入館中です」と言った。
帰宅後、スマートフォンの顔認証も失敗した。
《脇坂知哉の顔は、すでに別の端末へ登録されています》
その瞬間、実家の母からスマートスピーカー経由の通話が入った。機械音声が先に応答した。
「知哉さんは理科室にいます。こちらにいる方のお名前を入力してください」
母が戸惑った声で、知哉、と呼んだ。部屋の照明は、彼を誰とも認識せず消えた。