魔王候補の威圧を薄める霞湯

 宿《白霞楼》の初客は、入っただけで花瓶を割った。

 触れてはいない。魔族ザグレムの威圧に耐えられず、花瓶のほうが自壊したのだ。主人トワは割れた欠片を箒で寄せながら尋ねた。

「お困りは、それですね」

「明日、人間の領主と停戦を結ぶ。だが私が口を開く前に、交渉人が全員気絶する」

 次期魔王候補として生まれたザグレムは、怒っていなくても周囲へ恐怖を撒く。威圧を封じる鎧も試したが、椅子まで怯えて脚を折ったらしい。

 トワは中庭の霞湯へ案内した。乳白色の湯から、顔の高さまで濃い霧が立っている。

「力を消すのか」

「消しません。余って漏れているぶんだけ、霧に預けます」

「弱くなるつもりはない」

「強い方ほど、こぼさず持てたほうが格好いいですよ」

 ザグレムは不機嫌に沈んだ。たちまち霧が黒く染まり、梁がみしりと鳴る。トワは逃げず、砂時計を返した。

 黒霧は徐々に重くなり、水滴となって湯へ落ちた。威圧が凝縮されるたび、庭の草が起き上がる。止まっていた虫の声も戻った。

「もう上がって結構です」

 浴衣を着たザグレムが廊下へ出る。花瓶の横を通っても、今度はひび一つ入らない。帳場の茶器も震えず、庭へ戻った小鳥が手すりへ降りた。

 ザグレムが指を差し出すと、小鳥は逃げずに爪先へ乗った。魔族は戦勝より驚いた顔をした。

「生き物が私へ近づいたのは初めてだ」

「力がなくなったのではなく、近づく余地ができたんです」

 彼は壊さぬよう、指をゆっくり手すりへ戻した。

「私を恐れないのか」

「先ほどより、だいぶ話しやすいです」

 トワが真顔で答えると、魔族は喉の奥で笑った。その笑いにも窓は震えなかった。

 翌夕、停戦印を押した羊皮紙が宿へ届いた。交渉人は一人も失神せず、ザグレムが最後まで自分の声で条件を述べたと書かれている。添えられた袋には正規料金と、割れた花瓶の代金が一枚も違わず入っている。さらに短い書状。

『次回は交渉前夜に一泊する。人間側の代表も、倒れずに済む』

 トワが書状を予約帳へ挟んだ瞬間、玄関ベルが鳴った。

 扉の外では、誰かが怯えず普通に順番を待っていた。