黒板いっぱいの潮騒
雨で部活動が中止になった放課後、梯堂叶路は黒板いっぱいに海を描いた。
最初は波線一本だった。
迎えの車が来るまで暇で、日直用の白いチョークを横に寝かせ、黒板の下半分を青ならぬ白で塗った。そこへ魚を一匹、雲を三つ。教室に残っていたクラスメイトが、勝手に灯台を足した。
「海に見えない」
「色が白だから」
「冬の海ってことで」
「魚、凍ってるじゃん」
また一人、雨宿りの生徒が加わった。窓際に桟橋ができ、黒板の端には巨大な蛸が現れた。数学のグラフだった赤い線は夕焼けにされ、先生が消し忘れた『提出』の文字は、船の名前になった。
三十分後、教室の前には海が広がっていた。
上手な絵ではない。魚の大きさはばらばらで、船は蛸より小さく、水平線は途中から上り坂になっている。それでも全員が机を後ろへ寄せ、少し離れて眺めた。
「写真撮ろう」
誰かがスマートフォンを出す。
叶路は首を振った。
「明日の朝、先生に怒られる」
「だから撮るんでしょ」
「撮ったら残る」
「残したくないの?」
迎えを知らせるメッセージが届いた。
黒板係でもないのに、叶路は黒板消しを手に取った。自分で始めたから、自分で消すつもりだった。
最初に蛸の足を消した。
白い粉が舞い、海が黒へ戻っていく。みんなも黒板消しを持った。灯台、船、凍った魚。描くときは四十分かかったのに、消すのは五分だった。
最後に、右下の小さな島だけが残った。
叶路が手を伸ばすと、灯台を描いたクラスメイトが止めた。
「そこ、明日まで残そう」
「すぐ見つかる」
「島だから、見つからなくてもいい」
叶路は黒板消しを置いた。
翌朝、教室へ入ると、島は消えていた。先生が消したのか、早く来た誰かが消したのかはわからない。
ただ、黒板の表面を斜めから見ると、チョークの粉が薄く残り、消した海の形が西日の代わりに朝の光へ浮かんだ。
写真は一枚もなかった。
だから叶路は、誰かにあの海のことを話すたび、魚を増やし、蛸を大きくし、水平線を少しずつ遠くした。
放課後の四十分だけ存在した海は、消したあとから、記憶の中で広くなり続けた。