黒板が見えないふり
席替えで窓際の後ろを引いた彼は、誰より喜んだ。
「これで寝られる」
そう言って机に突っ伏し、周りを笑わせた。
僕はその前の席だった。授業が始まると、彼は何度も僕の肩をつついた。
「今、何て書いてある?」
「自分で見ろよ」
「光って見えない」
窓からの反射が黒板に重なるのは本当だった。それでも毎時間聞かれると面倒で、僕はノートを少し横にずらし、勝手に写させることにした。
彼のノートは字が大きく、行からはみ出していた。英語の小文字も、漢字の細い線も潰れている。ふざけているのだと思った。
ある日、先生が後ろの席を指した。
「そこ、本文を読んで」
彼は立ったまま黙った。
「教科書、忘れたのか」
「あります」
「なら読め」
教室が静かになった。彼はページに顔を近づけた。それでも声が出ない。
僕は初めて、彼が黒板だけでなく、手元の文字も見えていないことに気づいた。
放課後、保健室へ連れていこうとすると、彼は嫌がった。
「眼鏡、似合わないから」
「そんな理由?」
「中学でずっと言われた。瓶底って」
今の眼鏡は家に置いているらしい。裸眼なら、見えないふりを笑いに変えられる。寝ているふりも、教科書を忘れたふりもできる。
「じゃあ僕が毎日読むの?」
「だめ?」
「だめ。面倒」
彼は笑ったが、僕は続けた。
「眼鏡かけても笑うやつがいたら、そっちを面倒にする」
翌日、彼は黒いフレームの眼鏡をかけてきた。
教室へ入った瞬間、何人かが驚いた声を上げた。彼はいつもの調子で「知的だろ」と言った。誰かが「意外と似合う」と返し、それで終わった。
席に着くと、彼は窓の外をじっと見た。
「銀杏って、葉っぱあんな形なんだ」
僕には見慣れた景色だった。
「今まで何に見えてた?」
「黄色い塊」
その日の数学で、彼は一度も僕の肩をつつかなかった。少し寂しくなり、僕からノートを横へずらした。
「何」
「字、ちゃんと見えるか確認」
彼は眼鏡を押し上げた。
「お前の字、見えないほうがきれいだった」
僕らは声を殺して笑った。
窓際の後ろは、寝るための当たり席ではなくなった。彼にとって、教室が初めて細部まで見える席になった。