ぬるい葡萄ソーダ

駅前の再開発で自動販売機が撤去されると知り、私は仕事帰りに旧通学路へ寄った。塾へ向かう角に、赤い古びた機械がまだ立っている。葡萄ソーダのボタンを押すと、取り出し口に落ちた缶は少しぬるかった。

高校二年の六月、依吹は毎日この飲み物を買った。炭酸が苦手なくせに、最初の一口で必ず顔をしかめた。私はそれを見るたび笑い、彼女は「紫は元気の色だから」と言い張った。

夏休み前の金曜、私の財布から百円玉が消えた。直後、依吹の手に葡萄ソーダがあった。私は盗ったと決めつけ、皆の前で責めた。彼女は否定せず、缶を私へ押しつけて走っていった。

翌週、依吹の席は空になった。父親の都合で急に転校したと担任が告げた。机の中には、小銭と短い手紙が残されていた。

〈百円は借りました。最後に一緒に飲みたかった。返す前に言えなくてごめん〉

私も謝りたかった。けれど連絡先を知らず、クラスの誰も転居先を知らなかった。私は葡萄ソーダを二度と買わなくなった。

缶を開ける。弱い炭酸が舌で弾ける。二十九歳の今なら、百円より大きな間違いをいくつも知っている。謝罪が届かないことも、届かなくても言葉にする意味があることも。

私は手紙の写真を、転校生を探す同窓会のグループへ初めて投稿した。事情を知らない人に見られるのが怖くて、ずっと隠していたものだ。〈依吹を知っている人がいたら、これを返したいです〉と添える。

すぐには反応がない。残ったソーダはやはりぬるく、記憶の味ほど鮮やかではなかった。

それでも缶を捨てず、駅まで持って歩く。過去を美味しく飲み直すことはできない。けれど、あの日途中で終わった一缶を、自分の手で最後まで飲むことはできる。

缶のデザインは変わり、値段も百円ではなくなっていた。変わらない味を期待していた自分に気づき、私は少し笑う。思い出だけが保存されすぎていた。

改札前で空になった缶を振ると、小さな泡の音がした。私はそれを資源回収箱へ入れ、返事のない画面を閉じて、今夜の電車に乗った。