クラゲの灯りが消えるまで

閉館後の水族館では、クラゲだけがまだ青く光っていた。

水科鞠絵は大型水槽の前で、沖縄へ異動する笹森侑典を待っていた。彼の最終出勤日。職員送迎バスが出るまで十五分だった。

侑典が新しい研究所へ推薦されたのは、鞠絵が書いた評価書がきっかけだった。行ってほしいと願ったのも本当で、行かないでほしいと思ったのも本当だった。推薦結果のメールが届いた夜、鞠絵は一人で祝杯を上げ、同じグラスで泣いた。

けれど好きだと言えば、推薦まで私情だったと疑わせてしまう。それだけはできなかった。

「制服、返してきた」

侑典が隣に立つ。白いシャツの袖には、もう職員証がなかった。

「お疲れさま」

「見送り、ここでいいよ」

「バス乗り場まで行く」

「泣くなら困る」

「泣かないし」

クラゲがゆっくり傘を開いた。館内放送の代わりに、清掃機の低い音が近づいてくる。

「鞠絵は、俺を見送るの得意だね」

「どういう意味?」

「推薦書にも『新しい環境で力を発揮できる』って書いてた」

「事実だから」

「事実だけ?」

送迎バスまであと十分。逃げるなら職員通路しかないが、侑典がその前に立っていた。

鞠絵は水槽へ視線を戻した。

「沖縄の研究、やりたかったんでしょ」

「鞠絵に聞いてる」

「見送るよ。ちゃんと」

一度目は仕事として、二度目は自分を守るために言った。

侑典はポケットから小さな紙を出した。鞠絵が書いた評価書の写しだった。末尾に、提出前には消したはずの鉛筆跡が残っている。

――離れても、この人の研究を見続けたい。

下書きにだけ書いた一文だった。

「消しゴム、甘かったね」

鞠絵の頬が熱くなる。

「それは、研究の話」

「うん。だから聞く。三か月後の共同調査、来る?」

バスのクラクションが一度鳴った。

鞠絵は評価書を受け取り、折り目を整えた。

「見送るんじゃない。待つ。次に一緒に潜れる日を」

侑典が笑った。鞠絵は告白の代わりに、職員用タブレットを開く。三か月後の沖縄調査欄へ自分の名前を入力し、申請ボタンを押した。

青い照明が落ちる直前、二人の影だけが水槽に並んだ。