ゴールテープの裏側
環は計時係だった。
走るのが嫌いで選んだ仕事だが、ストップウォッチを握ると、誰より真剣になった。スタートの煙、ゴールへ飛び込む胸、親指でボタンを押す。その一瞬だけは、速い人にも遅い人にも同じように訪れる。午前中だけで三十七人の時間を測り、環は一度も押し間違えなかった。由良の番だけは、朝から数字にしたくないと思っていた。
クラス対抗リレーのアンカーは由良だった。
幼なじみのくせに、朝から一言も話していない。昨日、由良が「勝ったら伝えたいことがある」と言ったからだ。何を、誰に。聞けないまま、環はゴール脇に立った。小学生の運動会でも、由良は走り終えると必ず環に順位を聞いた。だから今日も自分のところへ来る。その確信が、期待より怖かった。
由良は一位で最終コーナーへ入った。二位が迫る。環は時計ではなく、由良の顔を見ていた。必死で、苦しくて、それでも笑っている。
ゴール。
親指が止まった。
六十七秒八二。
赤組が優勝し、由良はクラスメイトに囲まれた。環は記録用紙へ数字を書こうとして、手が震えていることに気づいた。
しばらくして、由良が汗だくのまま来た。
「何秒?」
「六十七秒八二」
「遅いな」
「向かい風だったし」
「違う。環の反応」
由良はゴールテープの裏側へ回り込み、誰からも見えにくい場所に立った。
「勝ったら言うって話」
「聞いてない」
「昨日聞いた」
「忘れた」
環はストップウォッチを握り直した。ボタンを押せば、数字はゼロに戻る。
「好きな人に告白する」
由良が言った。
環は時計を見た。六十七秒八二のまま止まっている。胸の中だけは、その何倍もの速さで進んでいた。
「早く行けば」
「もう来てる」
次の競技の選手がゴール前に並び、係の先生が「計時、準備」と叫んだ。
環はリセットボタンを押した。数字が消える。
「返事は?」
「今、仕事中」
「何秒待てばいい?」
環は新しいスタートラインへ時計を向けた。
「六十七秒八二よりは、短くする」
ピストルが鳴った。
その日、環が唯一記録しなかった時間だけが、今も正確に胸に残っている。