スーツでは踊れない

ダンス部の鏡張りの部室で、三人は最後の八カウントを合わせていた。

諸星杏樹のパンプスは、隅の就活鞄から半分はみ出している。四月から住宅会社の営業。波多野駿は県警の採用試験に受かり、夏目澪だけが小さなダンスカンパニーへ進む。

「もう一回、頭から」

澪が言う。

「明日、内定者研修だから無理」と杏樹。

「警察学校よりは踊れるだろ」と駿。

「スーツで床に転がれって?」

曲が止まる。鏡の中で、三人の立ち位置だけが残った。鏡だけは、三人を同じ幅で映していた。

カンパニーの最終審査で澪が踊った振付は、杏樹が作ったものだった。応募締切の日、杏樹は住宅会社の最終面接と重なり、オーディションを諦めた。

「振付、私の名前も出してくれた?」

杏樹が聞く。

「聞かれなかった」

「言うことはできたよね」

「言ったら、私まで『共同制作の一部』になる」

駿が音量を下げた。

「就活って、全員をソロにするな」

「駿はいいよ。体力も協調性も、全部ダンスのおかげって面接で言えたでしょ」

「踊りたいとは言えなかったけどな」

澪は鏡を見たまま言う。

「月給、杏樹の半分。保険もない。踊れるのに、勝った感じがしない」

杏樹は返事をせず、パンプスを履いた。足首のテーピングが肌色のストッキングから透ける。

「私は家を売る。駿は治安を守る。澪は踊る。説明だけなら、みんな立派」

「じゃあ何が不満なんだよ」

「同じ曲で始めたのに、終わりだけ別々に評価されたこと」

駿が再生ボタンを押す。三人は無言で踊った。杏樹はパンプスのまま、駿は警察学校用に切った短い髪で、澪は審査番号の札を外さずに。

八カウント目、三人は違う方向を向く。振付どおりだったが、誰も次の動きへ戻らなかった。

杏樹は先に部室を出た。駿も制服採寸の時間を確認して去った。澪は鏡の前に残り、借りていた振付ノートを椅子へ置いた。

ノートの上には、杏樹の古いダンスシューズが一足あった。右だけ靴底がすり減り、左はまだ、どこへでも踏み出せそうに白かった。