チェーンの音が消えるまで
四方田絵麻と有馬啓悟は、朝から一度も口をきいていなかった。
原因は昨日の昼休み、啓悟が絵麻の進路を勝手に「地元の短大」と決めつけたことだった。謝られてもいない。だから放課後、絵麻の自転車のチェーンが外れても、彼にだけは頼みたくなかった。
「貸して」
頼んでいないのに、啓悟はしゃがんだ。制服の袖をまくり、油で指を黒くしながらチェーンをかけ直す。
「直った」
絵麻は無言でペダルを踏んだ。空回りした。
「歯が欠けてる。駅までなら、俺の後ろ」
断るべきだった。けれど次の電車を逃せば、塾に間に合わない。絵麻は啓悟の荷台に座り、鞄を抱えた。
二人乗りの自転車は、いつもよりチェーンの音が大きかった。かしゃ、かしゃ、と気まずさを数えるように鳴る。
「昨日のこと」
啓悟が言った。
絵麻は返事をしない。
「地元に残ってほしいって言えばよかった」
「同じじゃない」
「違う。絵麻が決めることだって分かってる。でも、遠くへ行くって聞いて、先に腹が立った」
「誰に」
「未来に」
ばかな答えだった。ばかすぎて、絵麻は少し笑ってしまった。
「謝る順番が変」
「ごめん」
「それも遅い」
「ごめん」
絵麻は県外の美術大学を考えていた。絵を仕事にしたいと言ったとき、家族より先に応援してくれたのは啓悟だった。それだけに昨日の言葉が痛かった。残ってほしいなら、命令ではなく寂しいと言ってほしかった。背中越しでは表情が見えない。その代わり、ペダルを踏む力が会話のたびに強くなるのが分かった。
踏切で止まる。警報機の音に混じって、啓悟がもう一度「ごめん」と言った。
電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。走り出した自転車のチェーンは、さっきまでより静かだった。
駅前で降りると、絵麻のスカートの裾に小さな油染みがついていた。啓悟が気づいて顔をしかめる。
「ごめん」
「四回目」
絵麻は鞄から志望校のパンフレットを出し、彼の胸へ押しつけた。
「読むなら許す。遠いって決めつける前に」
啓悟は両手で受け取った。
改札へ向かう絵麻の背後で、自転車のチェーンが一度だけ鳴った。それは、返事のように聞こえた。