ベランダのシャツ

伊万里が出張から帰る日、静馬は洗濯物を夕方まで取り込まなかった。空は晴れていたし、シャツの袖が風に揺れるのを見ると、家が誰かを手招きしているようだった。

伊万里の列車は四時着のはずだった。四時半、連絡はない。静馬は乾ききったタオルを裏返し、鉢植えの土へ水をやった。五時、駅前で土産を見ていると短い知らせが来た。静馬は「了解」とだけ返し、米を研ぐ。

一人なら卵かけで済ませる夕飯を、今日は鯵の干物と小松菜の煮浸しにした。伊万里が旅先で何を食べてきても、家の醤油の味は別腹だと言うからだ。魚を焼く匂いが網戸を抜け、ベランダのシャツへ移っていく。

六時を過ぎて風が冷たくなった。静馬はようやく洗濯物を畳み、伊万里のシャツだけ椅子の背に掛けた。旅行鞄の車輪が路地の継ぎ目を越す音は、遠くからでも分かる。ごとん、ごとん、と不器用に近づいてくる。

玄関を開ける前に、伊万里が外でくしゃみをした。

「魚の匂いがした」

「隣かもしれない」

「うちの醤油だった」

土産は土地の名が印刷された最中だった。二人はそれを食後に半分ずつ割った。皮がぱりりと鳴り、餡の甘さが熱い番茶にほどけた。

伊万里が風呂へ行ったあと、静馬は椅子のシャツを鼻先へ寄せた。日向と魚と、夕方の風の匂いがした。明日になれば消える匂いばかりだったが、伊万里はもう家にいる。シャツは普通に箪笥へしまえばよかった。

翌朝、伊万里は椅子のシャツを着て、袖口を嗅いだ。「なんか魚」と言う。静馬が黙っていると、「迎えに出してたでしょう、これ」と笑った。シャツに口があるわけではないのに、見抜かれた気がした。静馬は最中の残りを朝食後に出し、番茶を淹れる。旅の話はまだ半分も聞いていなかった。窓を開けると、昨夜より乾いた風が入り、袖の匂いを少しずつ連れ去った。

伊万里が出かけたあと、空になった椅子の背に朝日が当たった。静馬は窓を閉め、家に残った旅の続きへ耳を澄ませた。