ミュート解除は猫の仕事
葛西環奈は、在宅勤務になってから、誰とも雑談をしなくなった。
会計事務所の会議は必要な数字だけで進む。
「売上高、確認しました」
「次の資料を共有します」
「以上です」
画面を閉じれば、部屋には冷蔵庫の音しか残らなかった。
黒猫が窓から入ってきたのは、月末のオンライン会議中だった。
ベランダの隣室との仕切りをくぐり、開けていた窓から机へ飛び乗る。首輪はなく、耳の先が少し欠けていた。
「ちょっと、今は駄目」
環奈が小声で押し戻すと、猫はキーボードを踏んだ。
消していたはずのマイクが入る。
「にゃあ」
会議が止まった。
上司が最初に笑い、同僚たちの画面にも顔が近づいた。
「葛西さん、猫いたんだ」
「いえ、今、初めて来ました」
「新しい監査担当?」
「数字には厳しそう」
五分ほど、皆が自分の家のペットや昔飼っていた動物の話をした。会議は予定より少し延びたが、環奈は久しぶりに誰かの笑い声を仕事の外側で聞いた。
猫はその後も毎日来た。
迷い猫の届けを出し、近所に写真を貼ったが、飼い主は見つからない。マイクを勝手に入れた功績から「ミュート」と名づけた。
ミュートは会議が始まると机へ乗り、画面の中の人々を一人ずつ見た。環奈が長く話しすぎると資料の端を噛み、残業を始めると電源ボタンの前へ座った。
〈本日の会議、猫も参加しますか〉
同僚からチャットが来るようになった。
〈参加予定です。発言は不定期です〉
環奈も冗談を返せるようになった。
ある夕方、決算資料の数字が合わず、環奈は画面へ顔を近づけていた。時計は九時を回っている。
ミュートが机から降り、台所へ行き、戻ってきて鳴いた。
「ごはん?」
ついていくと、猫の器は空だった。自分の昼食の皿も、流しに置いたままだ。
環奈は仕事を保存し、猫には餌、自分には冷凍の焼きおにぎりを温めた。
床に座り、二人で遅い夕食を取る。醤油の焦げる匂いが部屋に広がり、ミュートの尾が環奈の足首へ触れた。
翌日の会議で、環奈は自分から言った。
「昨日の差額、解決しました。あと、猫に夕食を催促されました」
画面の向こうで、いくつか笑い声が重なる。
ミュートは誇らしげにキーボードを踏んだ。
今度はマイクではなく、カメラが切れた。真っ暗な画面の前で、環奈は声を上げて笑った。