一冊を読まない読書会

葛西琴乃は、会社の読書会で指定された四百ページの本をカウンターに置いた。

「来週までに読まないといけないんです。でも、同じ行を何度も読んでしまって」

篠塚透は、色の違うインデックスカードを机に扇状に並べた。

「一冊でなくていい」

「指定図書はこれ一冊です」

「読む単位の話です」

篠塚は笑わない。質問には必要な語しか返さず、カードを揃える音だけが妙に几帳面だった。

琴乃は活字が嫌いではない。大学までは小説も読んだ。けれど仕事で一日中画面を見た後、文字の列がほどけてしまう。読書会は部署の恒例で、欠席すれば「意欲がない」と言われそうだった。

「要約本を読んだふりするしかないですか」

「読んだふりの相談には答えません」

「ですよね」

「一冊でなくていい」

篠塚は目次をコピーし、章ごとに切り分けた。青いカードには“事例”、黄色には“主張”、白には“疑問”と書く。

「今日は第一章の事例だけ。明日は著者の主張だけ。順番どおりでなくていい」

「それで読んだことになりますか」

「あなたが会で話したい疑問を持てれば、なります」

さらに同じ本の音声版が館内配信されていること、拡大表示できる端末があることを教えた。琴乃はイヤホンで聞きながら、紙の本を指で追った。目だけで読むより、文章が頭に残った。

三日後、第二章で仕事の評価制度の例に引っかかった。自社の制度と似ているのに、結論は逆だった。黄色いカードに著者の主張、白いカードに「数字で測れない仕事は、なかったことになるのか」と書いた。

読書会当日、全員が順番に感想を述べた。「勉強になりました」「実践したいです」という言葉が続く。琴乃の番になり、白いカードを一枚だけ机に置いた。

質問を口にすると、先輩が黙り、後輩がうなずき、会議は初めて予定時間を越えた。

翌週、本を返すと、篠塚はカードを数えた。

「全部の章は読めませんでした」

「一冊でなくていい」

いつもの言葉に、琴乃は少し悔しくなる。

「でも、次の指定図書も借りたいです」

篠塚は白いカードを一枚、新しい本に挟んだ。そこには何も書かれていない。

「一冊でなくていい。最初は、一つの疑問からで十分です」