一夜干しの耳
大庭壮一が店へ入ると、店主は冷凍庫からいかの一夜干しを取り出した。
「耳から食うやつ、これでいいか」
壮一は笑えなかった。五年前、ゲーム会社へ入った祝いにここへ来た夜、いかの三角の部分を先に切り取って食べた。歯応えのあるところが好きだと話したのを、店主はまだ覚えていた。
網の上で身が反り、じりじりと乾いた音がする。炙られた海の匂いと薄い煙が狭い店に広がり、裂いた繊維から白い湯気が細く上がった。耳の端は少し焦げ、噛むほど塩気が強くなった。
今日、二年かけたゲームの開発中止が発表された。
壮一は背景班の進行役だった。夕方、契約社員の若いスタッフから個別にメッセージが来た。
〈私が作った町は、全部無駄だったんでしょうか〉
答えられなかった。自分だって同じことを聞きたかった。企画を守れなかった責任もある。下手な慰めを書けば、立場のある人間が安全な場所から言っているように見える。
発表後の会議では、誰もスタッフの作った町の名前を口にしなかった。予算、損失、配置転換。正しい数字だけが並び、壮一も進行役として頷いた。画面を閉じたあと、完成していた夕焼けの背景だけが頭に残った。
店主は焼けた耳を皿の手前へ置いた。
「そこ、先だったな」
「よく覚えてますね」
「変な食い方は覚える」
壮一は硬い端を噛んだ。すぐには切れず、何度も顎を動かすうち、旨味が出た。
スマートフォンを開き、慰めの言葉を消した。代わりに、スタッフが担当した場所を三つ挙げ、それぞれ何が優れていたかを書いた。さらに、会社へ確認して明日中に、公開可能な画像をポートフォリオへ使えるよう申請すると添えた。
町は発売されない。それを無駄ではないと言い切る資格は、壮一にもない。ただ、作った事実まで社内のサーバーへ沈めたくなかった。
送信すると、すぐ既読がついた。返信は来ない。その沈黙を埋めず、壮一はいかの胴へ箸を伸ばした。
冷めた身はさらに硬く、炙った匂いが濃かった。噛み終えたあとも、海の塩気と煙だけが、喉の奥へ細く残った。