一音ぶんの家賃

樫尾茉莉の手元には、同じ家賃の間取り図が二枚あった。

一枚は十畳の明るい部屋。もう一枚は六畳半で、窓が小さい代わりに防音室がついている。

茉莉は趣味でチェロを弾く。週に二度、仕事を終えてから貸し練習室へ通い、重いケースを電車へ運ぶ。上手ではない。発表会では毎回どこかで音を外すし、音楽で暮らす予定もない。

だから、六畳半を選ぶのは大げさに思えた。防音室のためにベッドを小さくし、食卓を置かず、日当たりまで諦める。十畳の部屋なら友人を呼べるし、大きなソファも置ける。二十九歳の部屋としては、そちらのほうが暮らしが整って見える。

不動産会社の申込画面には、希望物件を一つだけ入力する欄があった。

茉莉はチェロケースを開けた。弓を張らず、一本の弦を指で弾く。低い音が今の部屋に広がり、すぐ壁へ吸われた。隣室を気にして、いつもより弱く弾いている自分に気づいた。

上手でなくても、続けたいことに場所を使っていい。そう思う一方で、狭さに苛立つ朝や、窓の小ささを後悔する雨の日も想像できた。

茉莉は防音室のある部屋の番号を入力し、送信した。

審査通過の連絡が来た夜、鍵を受け取りに行った。新しい防音室には何もなく、自分の呼吸だけが近く聞こえた。

茉莉は間取り図へ、チェロケースの長さを定規で写した。防音室を選べば、今の二人掛けソファは入らない。来客には折り畳み椅子を出すことになる。誰かを迎える余白と、自分が音を出す余白。十畳という数字だけでは測れないものが、紙の上でぶつかった。

ソファの譲渡先が決まると、茉莉は少し泣いた。手放す家具が惜しいままでも、残したい音を優先してよかった。

新居で音を嫌う日が来ても、その沈黙まで自分の部屋で選べる。それが茉莉には、広さより贅沢に思えた。

茉莉はケースからチェロを出し、開放弦を一音だけ鳴らした。思ったより大きな音だった。家賃のうち、どれだけがこの一音のためなのかは分からない。それでも来月から、その金額を自分で払う。