三十歳の予約席

 佳澄が三十歳になるまで、あと一時間だった。

 朔が予約したのは、二十五歳のころ二人で入れなかった小さなビストロだった。当時は満席で、コンビニのワインを公園で飲みながら、どちらかが言った。

 ――三十になっても独身だったら、結婚する?

 それ以来、恋人ができるたび、別れるたび、共通の友人はその約束を笑い話にした。

「ついに明日だな」

 朔がグラスを上げる。

「ただの冗談でしょ」

「五年も有効な冗談、なかなかないよ」

「更新した覚えないけど」

 佳澄はメニューで顔を隠した。

 本当は二年前から、朔と会う前だけ口紅を塗り直していた。けれど、好きだとは言えなかった。約束があるせいで、何を言っても「ほかに相手がいなかったから」に聞こえる気がした。

 朔の一番ではなく、締切後に自動当選する保険になるくらいなら、友達でいたかった。

 閉店まで、あと四十分。店員がデザートの注文を聞きに来た。

「誕生日プレート、頼んである」

「準備いいね」

「約束の日だから」

「だから冗談だって」

 朔はナイフを置いた。

「佳澄、俺が本当に結婚しようって言ったら怒る?」

「理由による」

「三十になったから」

「怒る」

「独身だから」

「もっと怒る」

「佳澄だから」

「……それ、順番が逆」

 店内の時計が二十三時三十二分を指す。佳澄は水を飲んだが、喉の乾きは消えなかった。

「私、代案になりたくない」

「何の?」

「理想の相手が見つからなかったときの」

「理想って、五年前から同じ席にいる人じゃ駄目なの」

 店員がろうそくの立った小さなケーキを運んできた。プレートには〈三十歳おめでとう〉だけで、結婚を急かす言葉はなかった。

 朔は火を見ながら言った。

「約束が邪魔なら、いったん破ろう」

「え?」

「零時になっても結婚しない。保険は失効。明日から改めて、俺が佳澄を誘う」

 ろうそくが短くなる。

 佳澄は笑いそうになって、泣きそうになった。

「冗談みたい」

「まだそう聞こえる?」

「ううん。冗談じゃなく、私を選ぶなら聞く」

 佳澄は火を吹き消した。

 零時になる前に、スマートフォンの予定表から〈朔と結婚する期限〉を削除する。その代わり、翌週の同じ時刻に新しい予定を入れた。

 題名は〈一回目のデート〉。参加者の欄へ朔のアドレスを入れ、送信を押した。