上場前日の残高

紫藤ヶ丘蒼維は、婚約者の御巫野比奈弥から「堅実すぎて退屈」と言われていた。

彼は中古の小型車に乗り、昼食は社員食堂。比奈弥が欲しがる高級マンションも、今は必要ないと断った。

その比奈弥が婚約破棄の席へ連れてきたのが、雨宮坂千紘雅だった。

「千紘雅さんは暗号資産で十億を動かしてるの。蒼維は経理担当で、一円単位を気にしてばかりでしょう」

千紘雅は金色のカードを机へ置いた。

「資産家は、節約より機会を選ぶ。彼女には僕の世界のほうが合う」

蒼維は婚約解消書へ署名し、比奈弥が共同名義にしようとしていた口座を閉じた。

翌朝、東京証券市場の上場式典が生中継された。新規上場企業は、個人商店向け決済システムを開発した会社。鐘を鳴らす代表として、蒼維が画面に映った。

彼は経理担当ではなく創業者兼最高経営責任者で、株式の四割を保有していた。無駄な出費を避けたのは、加盟店手数料を下げ、社員へ持株を配るため。初値で会社価値は三千億円を超え、蒼維の持分も千億円規模になった。

比奈弥から電話が来る。

「どうして社長だって言わなかったの?」

「名刺にも登記にも書いてあったよ。君は僕の車しか見なかった」

隣で千紘雅が、上場株へ大金を入れると言い出した。しかし彼のスマートフォンには、証券会社から強制決済の通知が届いていた。

十億を動かしていたのではない。借りた資金で損失を膨らませ、顧客へ虚偽の運用報告をしていた。比奈弥へ見せた残高画面も、別口座の画像を加工したものだった。

金融会社の担当者が会場へ現れ、千紘雅へ契約解除と返還請求を告げる。比奈弥の父も、娘が連帯保証の書類へ署名しかけていたと知り、実家の援助を停止した。

比奈弥は蒼維へメッセージを送った。

〈私はお金ではなく、将来性を選びたかっただけ〉

蒼維は返信せず、社員たちと上場の鐘を見上げた。

初値が画面に確定し、千紘雅の口座が強制決済された瞬間、比奈弥が“退屈な経理”と捨てた男だけが、何万人もの商売と自分の未来を堅実に黒字へ変えていた。