不合格者の余白
雨宮瑞季は、古書喫茶「小径」で簿記試験の参考書を見つけた。
十年以上前の版で、税率も出題範囲も古い。商品として役に立つとは思えないのに、頁はびっしり書き込まれていた。誤答には赤い×、理解した箇所には青い丸。欄外には「また桁を間違えた」「ここだけ三回目」と、自分を叱る言葉が続く。
瑞季は他人の失敗を覗くようで落ち着かなかったが、巻末の受験記録欄までめくった。一回目、不合格。二回目、不合格。三回目の欄は空白で、その下に鉛筆で一行だけある。
「申し込まなかった。絵の学校へ払った」
瑞季のスマートフォンにも、簿記試験の申込画面が開いていた。経理部への異動を勧めた父が受験料を出すと言い、会社でも資格手当がつく。絵を描く仕事がしたいと話したとき、「食べていける資格を先に」と言われた。正しい順番のように聞こえた。
けれど今夜は、夜間のイラスト講座の入学金締切でもある。両方払う余裕はない。簿記へ申し込めば、父には安心したと喜ばれる。講座へ払えば、半年後に何も残らない可能性がある。
閉店まで十二分。店主はレジの古い計算機で本の価格を打った。表示は五百円。店主は参考書の古さを確認し、半額のシールを貼ろうとしたが、途中で手を止めた。既に見返しに「資料として販売」と書かれている。値引きはせず、五百円をそのまま打ち直した。
瑞季が千円札を出すと、店主は五百円玉を一枚返した。百円玉を五枚ではなく、迷いなく一枚で。レシートには「古書 一冊」とだけ印字され、合格も不合格も商品名にはならなかった。
瑞季は席へ戻り、簿記試験の画面を閉じた。父へ説明する文章はまだ書けない。まず夜間講座のページを開き、入学金を決済する。
完了表示のあと、残高は心細い数字になった。
参考書の巻末をもう一度開く。三回目の空白は、失敗した記録ではなかった。受けなかった試験にも、使った五百円にも、赤い×はついていない。
瑞季は自分の予定表から「簿記申込」を消し、代わりに最初の授業日を青い丸で囲んだ。父へ話すのは、その丸を消さずに見られるようになってからでいいと思った。