九匹目の犬

河川管理課が公開している冠水対策マニュアルには、閉鎖された谷戸排水トンネルの頁だけ奇妙な注記がある。

《壁に描かれた犬を数えてはいけない》

灰谷理久は二十三歳の動画配信者で、行政文書に残った都市伝説を検証する企画を続けていた。立入禁止柵の隙間から入り、胸元のカメラを回す。

壁には子供の落書きらしい犬がいた。赤い犬、青い犬、脚が六本ある犬。視聴者コメントが数字を打ち始める。

〈今ので四〉

〈右奥にもう一匹〉

〈絶対数えるなよ〉

理久は笑いながら進んだ。自分では数えないつもりだったが、曲がり角の先で同じ犬が続けて描かれているのを見て、口が動いた。

「一、二、三……八匹」

言い終えると、水のない排水路から首輪の鈴が鳴った。

配信画面の視聴者数が八人で固定される。コメント欄には同じ文が八つ並んだ。

〈こっちを見て〉

理久は走って出口へ戻った。背後から爪がコンクリートを掻く音が追ってきたが、振り返らなかった。外へ出ると配信は途切れ、アーカイブも冒頭三分しか残っていなかった。

ただ、動画の自動生成サムネイルには、暗闇に八組の目が浮かんでいた。

理久は河川管理課へサムネイルを送った。返信は「壁画は七年前に全面消去済みです」の一文だけで、添付された現況写真には、犬の代わりに人間の手形が八つ並んでいた。

その夜、部屋のスマートドアベルから通知が届いた。

《動物を検出しました》

廊下には何もいない。翌夜も同じ時刻に通知が来た。映像の端に、濡れた犬の鼻先だけが映っていた。三日目は前脚、四日目は胴体。通知の検出番号も一ずつ増えた。

《犬 5》

《犬 6》

《犬 7》

《犬 8》

八日目、理久は玄関へ椅子を置き、スマートフォンを握って待った。午前零時、チャイムは鳴らず、通知だけが表示された。

《犬 9》

映像には、誰もいない廊下が映っていた。安心しかけたとき、人物認識の四角い枠が画面手前、室内側に現れた。

理久はゆっくり自分の足元を見た。床に、濡れた四つの足跡がついている。

ドアベルアプリが分類を更新した。

《犬 9/人 0》

室内カメラのマイクから、理久自身の声で「九匹」と数える音がした。