乾かさないハンカチ
稲守佳澄は、完成していないものを人に見せられなかった。デザイン会社から転職するためのポートフォリオも、十二回作り直している。文字間を一ミリ詰め、写真の明度を二パーセント上げ、翌朝になると全部が幼く見えた。
現職では、完成前の案を見せるたびに上司から赤字を入れられた。直せば評価され、直し続ければ否定されない。いつの間にか佳澄は、作品を良くするためではなく、直される前に自分で消すために修正していた。転職先へ送るはずの資料にも、まだ会ったことのない人の赤字が見えた。
応募したい会社の締切は明日の正午。今夜こそ送るつもりで、佳澄はコインランドリーへノートパソコンを持ち込んだ。洗濯が終わるまでに仕上げる。そう決めたのに、乾燥機が止まっても、同じページの余白を直していた。
乾燥機の表示が〈残り0分〉から変わらない。扉を開けようとすると、数字の場所に文字が浮かんだ。
〈全部、乾くまで待ちますか〉
佳澄が手を離すと、次の表示が出た。
〈一つだけ、湿ったまま持ち帰ってください〉
中の服はほとんど乾いていた。けれど祖母にもらった薄いハンカチだけ、折り重なった中心が冷たい。佳澄はそれを取り出し、掌に広げた。刺繍の花は少し歪み、裏側には糸の結び目がいくつもある。祖母はそこを隠そうとしなかった。「裏を見れば、手を動かした順番が分かる」とだけ言っていた。佳澄はその言葉を教訓とは思わなかった。ただ、歪んだ花を十年以上使い続けている事実の方が、整った説明より強く残っていた。
乾燥機は満足したように消灯した。
佳澄はプラスチックの椅子へ戻り、ポートフォリオを開く。修正候補には赤い印が二十七個残っている。いつもの佳澄なら、朝まで直し、それでも送らない理由を探す。
湿ったハンカチをキーボードの横へ置いた。冷たさが少しずつ机に移る。
応募メールの件名を入れ、本文に〈制作途中の案件については、現時点の思考過程も掲載しています〉と書いた。未完成を謝る文は打たなかった。
添付ファイル名の「最終版12」を「現在版」に変える。送信予約ではなく、送信を選ぶ。
クリックした指に、ハンカチの水分がほんの少し残っていた。