乾く前の血
「血は乾く前なら、よく落ちるよ」
王都闘技場の清掃班長サーラは、新人剣闘士ユノにそう教えた。
朝から続いた試合が終わると、観客は英雄の名を叫びながら去っていく。残るのは割れた盾、砂に吸われた汗、そして誰のものか分からない血。サーラは長い水切り棒で床を洗い、拍手の届かなかった場所を黙々と磨いた。
ユノは初勝利を挙げたばかりだったが、笑えずにいた。次の試合では、地下から運ばれる魔獣と戦わされる。
「怖い?」
「……はい」
「怖いまま立てるなら、それで十分」
そのとき、地下檻の鉄扉がひしゃげた。
飛び出したのは、三つ目の獅子《緋爪》。首には服従の魔輪が食い込み、痛みで狂わされている。監督官も警備兵も、観客席側の出口へ逃げた。砂上に残ったのはサーラとユノだけだった。
緋爪がユノへ跳ぶ。
サーラは水切り棒を横に寝かせ、たった一度振った。
水膜が弧を描いた。
獣の首が落ちた――とユノは思った。だが切れたのは肉ではない。首輪だけが四つに割れ、黒い呪印が空中で断ち切られていた。さらに爪先を縛っていた見えない魔力の糸まで消える。
緋爪はユノの目前で止まり、荒い息を吐いた。やがて巨大な頭を砂へ伏せる。殺意ではなく、長く耐えた痛みに震えていた。
王国剣術の最高奥義《慈断》。命を傷つけず、害意を強いる契約だけを斬る技。処刑されたはずの女剣聖が、かつて一度だけ見せたと伝わる。
サーラは何も言わず、割れた魔輪を布袋へ入れた。呪印から滲んだ黒い液を水で薄め、砂ごと掻き取る。緋爪の傷には洗浄薬を塗り、地下の開いた檻ではなく、治療舎へ続く柵を指した。獣はおとなしく歩いていった。
「どうして、正体を隠すんです」
「掃除班長が剣聖だと、休憩中まで試合を頼まれるだろ」
サーラは笑い、ユノの頬についた小さな返り血を濡れ布で拭った。闘技場にはもう歓声がない。ただ夕日と、洗った砂の匂いが残る。
布を絞り直しながら、彼女は最初と同じ調子で言った。
「血は乾く前なら、よく落ちるよ」