亀の歩幅と大根のおでん

 川沿いのおでん屋「月待ち」には、小さな中庭がある。

 庭の主は、店主の樫村が二十年飼っている亀の大福だ。冬は木箱の中で眠っているはずなのに、暖かい日にはのそのそ出てきて、敷石を一枚ぶんだけ進む。

 阿久津穂乃が店へ来たのは、二月にしては妙にぬるい夕方だった。

「大根と、糸こんにゃく。お酒はなしで」

 樫村が皿を出すと、穂乃は湯気に手をかざした。鞄には、判を押した離婚届が入っている。夫とはもう話がついていた。争いも泣き叫ぶこともなく、十年の暮らしを紙一枚へ畳んだ。

 明日、役所へ出す。それだけなのに、帰宅する方向へ足が向かなかった。

「大根、今日はよく染みてるよ」

 箸を入れると、柔らかな輪が静かに割れた。出汁をたっぷり含んだ内側から、昆布と鰹の香りが上がる。

「染みるの、時間がかかりますね」

「冷めるときに入るからね」

「熱いときじゃなくて?」

「煮立ててるだけじゃ、外ばかり崩れる」

 中庭で、枯葉がひとつ動いた。大福がその下から首を出し、石の縁に前足をかけている。

「止まって見えます」

「見てないと、けっこう進むよ」

 樫村は笑い、辛子を小皿の端へ足した。

 穂乃は夫と最後に食べた夕飯を思い出した。二人とも疲れていて、買ってきた弁当を黙って食べた。味を覚えていない。ただ、夫が割り箸の袋を丁寧に折っていたことだけ覚えている。

「嫌いになったわけじゃないんです」

 誰にともなく言うと、樫村は鍋の蓋をずらした。

「それなら、嫌いにならずに別れてもいいんじゃない」

「そんな別れ方、あるんですか」

「大根だって、鍋から出たら出汁じゃなくなる。でも染みた味は残るよ」

 糸こんにゃくを噛むと、ぷつりと切れた。穂乃は少しだけ泣き、すぐに湯気のせいにした。

 帰り際、中庭を見ると、大福は最初の石を越えていた。ほんの掌一つぶん。それでも確かに、来たときとは違う場所にいる。

 樫村は持ち帰り用の大根を一つ包んだ。

「明日の夜に食べな。今日より味が落ち着く」

 穂乃は鞄の中の紙と、温かな包みを並べて歩いた。川風はまだ冷たかったが、掌には出汁の熱が残り、少し先で亀の爪が石を擦る音がした気がした。