予約をキャンセルしない日
朝六時五十分。妻の結乃は胸元を押さえながら、病院の予約票を冷蔵庫から外した。
「今日の検査、キャンセルしておくね」
颯真の背筋を、前の人生の冷たさが走った。
大事な契約の日だった。幼い娘を預ける相手が見つからず、結乃は自分の検査を後回しにした。颯真はネクタイを締めながら「助かる」と答えた。その夜、台所で倒れた妻は、二度と目を開けなかった。
成功した契約も昇進も、棺の前では紙切れだった。颯真はその後、娘の発熱にも授業参観にも仕事を優先できなくなった。選択するたび、結乃が外した予約票の磁石が胸の中で落ちる音がした。
十年後から戻った今、冷蔵庫には同じ予約票が揺れている。
「今日の検査、キャンセルしておくね」
「しない」
颯真はネクタイを外した。
「でも、あなたの会議は」
「キャンセルするのはそっちだ。君の予約じゃない」
妻は「大丈夫」と笑おうとした。前の人生で最も憎んだ言葉だった。颯真はその笑顔を信じず、娘を毛布ごと抱き上げ、三人で車へ乗った。冷蔵庫には予約票だけを残した。今日守るべき予定が何か、帰宅した自分にも分かるように。
病院の受付で事情を話すと、結乃はすぐ検査室へ運ばれた。颯真は廊下で娘の小さな靴を揃えながら、会社から鳴り続ける着信を一つずつ拒否した。娘は予約票の裏へ、三人が手をつないだ絵を描いている。前の人生では妻の葬儀写真の前でしか並べなかった三人だった。契約先への謝罪文は後で書ける。妻へ謝れる未来は、ここで逃せば二度と来ない。
午後七時十二分。
前の人生では、帰宅した颯真が床に倒れた結乃を見つけた時刻だった。
今度は、手術室の表示灯が消えた。医師がマスクを下げる。
「早く来てくれたので、処置できました」
颯真のスマートフォンには、失注を知らせる通知が一件届いていた。彼は迷わず画面を伏せた。
娘の絵を枕元へ置くと、目を覚ました結乃が、かすれた声で言う。
「あなた、初めて私の『大丈夫』を信じなかったね」
その言葉だけで、失った契約より大きな未来が戻ってきた。