二冊目を開かない喫茶店

 鴨井由良と初瀬律子は、月に一度、駅裏の喫茶店で読書会をする。

 読書会と呼んでいるが、課題本も感想発表もない。互いに好きな本を持ち寄り、二時間ほど黙って読み、ときどきどうでもよい話をするだけだ。

 由良は短編集を二冊、律子は分厚い歴史小説を持ってきた。

「それ、今日中に読み終わる?」

「三年計画」

「読書会、三十六回分」

「途中で飽きたら、栞の位置が最終回」

 喫茶店の一人用テーブルを二つ寄せ、由良はカフェオレ、律子はレモンティーを頼んだ。

 店内には古いジャズが流れ、厨房から焼いたパンの匂いがする。

 二人は本を開いた。

 十分後、律子が顔を上げた。

「『馬車で半日』って何キロ?」

「知らない」

「調べて」

「自分の本を読んで」

 また沈黙になる。

 さらに十五分後、由良が言った。

「この短編、主人公がずっと蟹を茹でてる」

「面白い?」

「まだ茹でてる」

 話は本から外れ、駅前の新しい植木鉢が全部同じ形で気味が悪いこと、律子の隣人が朝五時にラジオ体操をすること、由良が買った靴下の左右で微妙に色が違ったことへ移った。

 やがて店主がチーズトーストを運んできた。

 二人で一皿を分ける。端の焦げた方を由良が取り、律子は中央の柔らかい方を選んだ。昔から、その配分で揉めない。

「最近、何かいいことあった?」

 律子が訊いた。

「スーパーで卵が安かった」

「いいね」

「律子は?」

「電車で座れた」

「いいね」

 大きな報告がなくても、会話は続いた。

 由良は、いいことを立派に見せなくてよい相手がいるのはありがたいと思った。

 二時間たち、由良は一冊目を半分しか読んでいなかった。

 二冊目は鞄から出さないまま。

 律子の歴史小説は、頁が十三だけ進んだ。

「三年じゃ足りないね」

「五年計画へ変更」

「店が続く限り」

「私たちが本を忘れない限り」

 会計を済ませると、外は細い雨だった。

 二人は傘を開き、駅の入口まで並んだ。

 コートにはバターと珈琲の香り、本には喫茶店の湿った木の匂いが移っている。

 読まなかった頁は減らない。次に会う理由として、栞の先で静かに待っていた。