五円玉の鈴
佐伯乃々花は、イチの首輪から小さなお守りを外した。緑色の布は角が擦れ、中の厚紙が少し見えている。近所の八幡社で十五年前にもらった犬用のお守りだった。
獣医は、今夜を越せるか分からないと言った。イチは家へ戻ると水を二口飲み、玄関のほうを見た。乃々花は散歩をさせるつもりではなかった。けれど首輪を外した手の中で、お守りの鈴が一度鳴った。
返しに行こう、と決めた。
八幡社までは三百メートル。特別な場所ではない。通勤の近道で、夏祭りの屋台が並び、イチが毎朝狛犬の台座を嗅いだ場所だ。乃々花はタオルと水をバッグへ入れ、歩けなくなったときのために古いスリングも持った。
イチは鳥居の手前で止まった。石段は六段しかないが、後ろ脚が上がらない。乃々花は胴を支え、一段ずつ前脚を置かせた。途中で鈴が鳴る。参拝客の鈴ではなく、手の中のお守りの音だった。
境内には誰もいなかった。社務所は閉まり、古いお札を納める箱だけが軒下に出ている。乃々花はお守りを箱へ入れようとして、糸に絡んだ一本の白い毛を見つけた。
息で吹いても取れない。爪先でつまみ、手帳の透明なポケットへ挟んだ。持ち帰るのは毛だけでいい。
イチは賽銭箱の前まで行かず、いつもの狛犬の足元に伏せた。乃々花は財布から五円玉を一枚出した。願いを決めるつもりはなかった。願えば、叶わなかったときに誰かを責めそうだった。
五円玉を賽銭箱へ落とす。木の底で、小さく跳ねる音がした。続けて、緑のお守りを納め箱へ置く。布の鈴が箱の縁に触れ、澄んだ音を一つだけ返した。
風で銀杏の葉が一枚、イチの背へ落ちた。乃々花は払わず、そのままにした。境内の掃除道具が壁へ立てかけてあり、竹箒の先だけが揺れている。帰る前に葉を一か所へ寄せようか迷ったが、今夜の用事はお守りを返すことだけだった。
乃々花は狛犬の台座についた泥を指で一筋だけ払った。イチの前脚が触れていた高さだった。
乃々花はふたを閉めた。鈴の音は中に残り、手のひらには何も残らなかった。