余白に署名

央士が婚前契約書を用意した時、私は傷ついたふりをした。

愛し合っているのに財産を分けるなんて、と涙を浮かべると、彼はすぐ謝った。けれど署名欄の上に、小さな条項を加えたまま撤回しなかった。

〈暴力・脅迫等の主張は、原本データおよび第三者の医療記録をもって確認する〉

随分と私を疑っている。

しかも契約書の紙には透かしがあり、差し替えたページが分かるようになっていた。彼は私がめくる指先まで見ていた。

私は念のため、結婚後に備えていた。洗面台には紫色の舞台用メイク。友人には「央士が最近怖い」と少しずつ送信した。彼が腕をつかんだように見える角度も、鏡の前で何度か試した。

母は、女は逃げ道を作っておくものだと言った。もし離婚するなら、ただ別れるより、相手が悪い形にした方が次の人生が楽になる。私は未来の自分を守っているだけだ。

央士は怒鳴らないし、物にも当たらない。だからこそ、周囲へ相談するには準備が要る。穏やかな男ほど外面がいい、と母も言っていた。私は彼の短い返事を冷淡に見える順番へ並べ、友人には一部だけ送った。友人が「それだけ?」と返した時は、説明のために前後の文章を少し書き足した。事実の芯は変えていないつもりだった。

それでも央士の行動は不自然だった。私が転んで膝を打つと、助け起こす前に時計を写し込んで写真を撮った。口論のあとには、「今、触れていないね」と必ず確認した。

まるで私が何かするのを待っているようだった。

署名の日、私はペンを置き、「こんな条件では結婚できない」と泣いた。央士は契約書の下からタブレットを出した。画面には、私が自分のスマートフォンで撮った痣の練習動画が映っていた。鏡の端に、彼が出張中の日付が見える。家族共有の保存先へ、自動で同期されていたのだ。

「勝手に見たの?」

「君が僕の名前をつけて保存した」

私は、彼に監視された被害者になった。友人たちへそう送ろうとしたが、送信履歴には私が時間指定した相談文まで残っていた。

央士は署名せずに帰った。

洗面台の紫色だけが、最後まで一度も彼の指の形をしていなかった。