保健室の白い手

「手を洗ってから入ってください」

王立学院の養護教師マルテ・セラは、保健室の入口に立つ生徒へ必ず言った。包帯を巻き、熱を測り、苦い薬に蜂蜜を一滴足す。戦争の話を嫌い、壁には勇者の肖像ではなく正しい手洗い順を貼っていた。

高熱で寝かされていた一年生のキアンは、夕方、カーテン越しに水音を聞いた。

洗面台の排水口から黒い泡が逆流し、無数の指を持つ塊になる。疫病魔ノクス。百年前、三国の軍を戦わずに全滅させた災厄だ。封印の弱った学院へ潜り込み、明朝には全生徒の肺へ巣を作るつもりだった。

『聖癒の勇者よ、お前一人では千人を救えぬ』

マルテは石鹸を泡立てた。

「千人ではありません。今日の欠席者を除けば、九百八十七人です」

両手を一度、合わせる。

白い泡が保健室を満たしたようにキアンには見えた。だが次に瞬きをしたとき、疫病魔は洗面台の上で豆粒ほどに縮み、透明な泡の中に閉じ込められていた。マルテが水を流すと、それは悲鳴も毒も残さず消える。かつて大陸を覆った疫病を一晩で洗い落とした力が、ただの手洗いにしか見えないほど静かだった。

キアンは毛布の隙間から、マルテが自分の額へ向き直るのを見ていた。九百八十七人を救った直後なのに、彼女が確かめるのは目の前の一人の熱だった。伝説の聖光より、その手のひらの冷たさのほうが本物に思える。疫病魔が言った「一人では救えぬ」という言葉は間違いだった。一人ずつ診るから、全員を救えるのだ。

彼女は排水口を消毒し、床の黒い滴を拭き、使った布を密封箱へ入れた。空気を入れ替え、薬棚の瓶を一列に揃える。最後に何事もなかったようにキアンの額へ手を置いた。

熱は下がっていた。

「先生が、あの白い勇者なの?」

「熱があると幻を見ます。今夜は眠りなさい」

「でも、みんな助かったんだよね」

マルテは答えず、少年の枕元に水差しを置いた。明日も全校の咳は、いつもどおり朝礼前の数回で済む。

戸口で見舞いの友人の声がした。マルテは白衣の袖を整え、平凡な注意を繰り返した。

「手を洗ってから入ってください」