保存数ゼロの夜
万里はタブレットの画面を閉じ、ペンを机に置いた。描きかけのイラストは、人物の片目だけが丁寧で、もう片方は薄い下書きのままだった。
息抜きのつもりでSNSを開くと、同じ年のイラストレーターが新しい仕事を発表していた。有名ブランドとのコラボレーション。投稿には数万のいいねと、「夢がかなってすごい」「努力は裏切らない」という言葉が並んでいる。
万里の今日の投稿は、四時間前に載せた小さなスケッチだった。いいねは十二。保存数はゼロ。数字を確認するたび、描いた線より、届かなかった距離のほうが濃く見えた。
会社から帰って一時間、眠気をこらえて描いた。好きで始めたはずなのに、投稿するようになってから、完成した瞬間より反応がつく瞬間を待つ時間のほうが長い。
テーブルには、冷めた肉まんが一つあった。机の隅には、消しゴムのかすだけが白く残っていた。小さな紙片も一つあった。帰宅途中に買い、描き始める前に食べるつもりだった。紙袋の底に、薄い油の丸ができている。
万里はコラボ投稿をもう一度見た。悔しい。羨ましい。自分もあそこへ行きたい。そう思えるほど、まだ諦めていないのだと気づくと、少しだけ苦しさの形が変わった。
けれど今夜、悔しさを燃料にして片目を完成させる力はなかった。
肉まんをレンジで温め直す。加熱しすぎて、表面の一部が固くなった。完璧なタイミングを逃したものでも、中は温かかった。
万里は自分の投稿を削除しようとして、指を止めた。十二人のうち何人が本当に見たのかは分からない。でも、少なくとも自分は、今日の線を残したかったから載せたのだ。
コメントも保存も増えていない。それでもスケッチは、数字がつく前から、万里が描いたものだった。
タブレットを開き、片目の下書きだけ少し濃くした。完成させず、ファイル名に「続きは明日」と入れて保存する。
今夜は伸びるための夜ではなく、やめないための夜でいい。万里は固くなった肉まんの端をちぎり、ゆっくり噛んだ。