保護者欄のない願書
宮地乃麻は、夜間調理学校の願書を食卓に置いた。
二十七歳の入学願書には、保護者欄がなかった。住所、勤務先、緊急連絡先。どこにも父母の署名を求める枠はない。
母は味噌汁をよそいながら、紙を覗き込んだ。
「また学校? 大学まで出たのに」
「働きながら通う」
「今の会社で総合職になれるって、お父さんが人事に頼んだでしょう」
乃麻は箸を置いた。父の知人がいる会社へ入って四年。異動希望を出すたび、父から先に「企画部がいい」と連絡が来た。乃麻が希望していた社員食堂の商品開発は、「裏方だから」と消された。
「会社は年度末で辞める」
母の手からお玉が鍋へ落ちた。
「結婚はどうするの」
「今、その話はしてない」
「女の子が二十七でまた学生なんて、遠回りじゃない?」
食卓の椅子には、大学受験のとき母が縫った座布団がまだ敷かれていた。〈合格〉の刺繍が裏側にある。乃麻は座布団を外し、床へ置いた。
「遠回りかどうかは、行き先を決めた人が言うことだよ」
母は願書を手に取ろうとした。乃麻は先に引き寄せる。
「見せるために置いたんじゃない。今夜、ここで封をするため」
「家族に相談もしないで?」
「相談したら、許可を取ったことにされるから」
乃麻は志望理由の欄を読み返した。〈働く人が午後を乗り切れる食事を作りたい〉。父が好む「安定」も、母が望む「結婚後に役立つ」も書いていない。
封筒へ願書を入れ、糊を塗る。母はしばらく黙ってから、鍋の蓋を戻した。
「学費は出せないわよ」
「出してもらわない。緊急連絡先にも二人の名前は書かない」
言葉にすると、母の顔が傷ついたように見えた。乃麻も胸が痛んだ。境界線は、引く側だけを無傷にはしない。
母は床の座布団を拾い、「これはどうするの」と尋ねた。
「置いていく。使うなら使って」
乃麻は封をした願書を鞄へ入れた。帰り際、母が「授業は何曜日」と聞いた。
「受かったら話す」
全部は渡さない。それでも、完全に閉じもしない。その幅を、乃麻は初めて自分で決めた。