値札のない絵

九曜塚凛司は、絵の具の飛んだ黒いシャツで画廊へ入った。

壁には現代美術の新作が並び、どれも値札がない。凛司が一枚の前で立ち止まると、主任学芸員の葛野史奈が近づいた。

「撮影は禁止です。購入相談は、ご予算を確認してから承ります」

「この作品、照明が強すぎませんか」

「作者の意図を、素人の方が心配する必要はありません」

若い警備員だけが、凛司の言葉を聞いて照度計を持ってきた。数値は保存基準を超えていた。葛野は警備員を叱り、凛司へ出口を示した。

「無料の美術館ではありませんので」

凛司は名刺を出さず、警備員へ礼を言って去った。

翌日、その画廊を運営する美術財団の新理事長就任式が開かれた。葛野は海外コレクターを前列へ並べ、昨日の作品を“自分が発掘した若手作家の代表作”と紹介した。

式場へ入った凛司を見て、警備員だけが姿勢を正した。

「九曜塚先生」

凛司は世界各地で個展を開く画家であり、画廊の建物と全収蔵品を財団へ寄贈した設立者だった。新理事長として経営にも戻る。その作品は、彼自身が十五年前に描き、非売品として貸し出していたものだった。

大型画面へ、貸与契約と保存条件が映る。葛野は照明基準を無視したうえ、非売品を海外客へ売却できるような説明をしていた。

「作者の意図を説明してもらえますか」

凛司が尋ねると、葛野は答えられない。

「昨日は、素人に説明する必要はないと……」

「昨日も作者でした」

凛司は、照度計を持ってきた警備員へ、財団の保存修復奨学金を提示した。彼は夜間大学で文化財保存を学びながら働いていたのだ。

葛野は反発した。

「警備員を学芸部へ入れるのですか。経歴が足りません」

「作品を守ろうとした実績は、十分な経歴です」

理事会は葛野の主任職を解き、売却交渉について調査を開始した。

照明が保存基準まで落とされ、絵の表面から余計な反射が消える。

作者名〈九曜塚凛司〉の札が作品の下へ戻り、警備員の奨学金採用が承認された瞬間、値札がないから価値を測れなかった葛野だけが、画廊での立場を失った。