値札を切る八分前
百貨店の返品受付が閉まるまで、あと八分だった。
砥部咲耶は紙袋から薄いベージュのコートを出し、新田惇史へ差し返した。誕生日に届いたものだ。袖を通したのは、家の鏡の前で一度だけだった。
「似合わないから、返す」
「サイズ、違った?」
「そういう意味じゃない」
惇史は来月から地方支店へ移る。付き合って半年、初めて贈られた形の残る品だった。惇史が店頭で何度も袖の長さを確かめたと共通の友人から聞き、その手間まで値段の一部に思えて苦しくなった。咲耶は食事や花なら笑って受け取れる。けれど値札の付いた物だけは、手元に置けなかった。
受付の係員が「本日の手続きは五分後までです」と声を掛ける。惇史はレシートを持っていたが、カウンターへ進まない。
「本当は一回、着たでしょ」
「どうして」
「ポケットに入れたメモがない」
咲耶は息を止めた。コートの右ポケットには、惇史の字で〈寒い日に使って〉とだけ書かれていた。請求も約束もない短い文を、咲耶は財布へしまっていた。
以前の恋人は、喧嘩のたびに贈り物の値段を並べた。鞄を買った、家電を買った、旅行代を出した。だから自分には許す権利がある、と。別れたあとも「返せ」と連絡が続き、咲耶は宅配便で全部送り返した。箱が軽くなるほど、愛情まで後払いだった気がした。だから咲耶は、欲しいものを聞かれても消耗品しか答えず、残るものほど先に断った。
「似合わないの」
「じゃあ返品する。無理に持たせたくない」
惇史がコートを受け取り、受付へ向く。咲耶はその背中を見て、今なら借りも痕跡も残さず終われると思った。安心するはずなのに、足が先に動いた。
「待って」
閉店の音楽が流れ始める。
咲耶はコートを取り戻し、レジ横の鋏を借りた。値札の細い糸を切り、紙袋を畳んで自分の鞄へ入れる。
「似合わないんじゃなくて、もらうのが怖い」
惇史はメモを返してとは言わなかった。咲耶はコートを羽織り、前のボタンを一つ留めた。閉まりかけた自動ドアを二人で抜けると、夜風はもう、返す理由にならないほど冷たかった。