傷を消さない手袋
榎並日和子は、月桂堂写真館へ母の肖像写真を持ってきた。来月の一周忌で飾るため、親族から「頬の傷をきれいにして」と頼まれていた。
写真の母は二十八歳で、左頬に細い火傷の跡がある。若いころの台所事故だと聞いた。日和子にも、同じ側のこめかみに生まれつき色の違う部分があり、毎朝コンシーラーを重ねている。母は傷を隠せとは言わなかったが、家族写真ではいつも右側を向いていた。
店主は白い手袋をはめ、写真を斜めの光へ滑らせた。表面には埃と、指でこすった跡がある。透明な保護シートを重ね、埃の位置だけを青いペンで囲む。頬の傷には印をつけない。
日和子は、修整の料金表を見た。〈汚れ除去〉の下に〈人物修整・一箇所〉とある。
「ここも、一箇所ですよね」
店主は母の頬を見た。それから料金表の該当行を指で隠し、注文票の余白へ〈経年の汚れのみ〉と書いた。決めるのは日和子だと示すように、署名欄をこちらへ向ける。
親族に説明する場面が頭に浮かんだ。きっと「写真くらいきれいに」と言われる。傷を残すことを、美談にしたいわけではない。ただ、母の顔から母が過ごした時間を勝手に取り除くのが嫌だった。
日和子は署名した。
「汚れだけでお願いします」
店主は手袋の指先で写真の四隅を押さえ、傷のある側が隠れない大きさの台紙を選んだ。包装紙は華やかな花柄ではなく、薄い半透明の紙だった。包んだあとも、母の輪郭がうっすら見えた。
会計が終わると、店主は鏡の前の照明を消した。強い光が落ち、日和子のこめかみの色は目立たなくなるのではなく、ただ顔全体の一部になった。
外へ出る前、日和子はスマートフォンで翌朝の予定を開いた。新しい職場の初出勤。服装、持ち物、その下に「コンシーラーを買う」とメモしてある。
その一行を削除した。
母の傷を残したから、自分も隠さない、というほど単純ではない。朝になれば迷うだろう。それでも今夜は、新しいコンシーラーを買わずに帰れる。
半透明の包みの中で、母は左頬をこちらへ向けていた。