内側の口紅
舞台女優の雨宮が稽古場でシャンパンを飲み、数分後に倒れた。毒は彼女の右手側にあったグラスだけから検出された。隣には同じ色の口紅が付いたもう一つのグラスがあり、演出助手の蔵本は「雨宮さんは二つを交互に飲んでいた。どちらが誰の物か分からない」と証言した。
稽古場に残っていたのは蔵本、共演者の墨田、メイク担当の榎並。墨田は雨宮と役を争い、榎並は解雇を告げられ、蔵本には借金があった。雨宮は乾杯の場面を何度もやり直し、そのたび小道具の位置が変わっていたという。二つとも本人が交互に使ったなら、毒入りを狙って渡すことは難しい。警察は事故だけでなく、自死の可能性まで考え始めた。
鑑識員の蓮見は拡大鏡を置いた。
「手掛かりは三つだけです」
一つ目。安全な方の口紅跡は、唇が触れる外側ではなく、縁の内側へ付いている。
二つ目。二つの跡にある細かな亀裂と、色が欠けた一点が、左右反転した形で完全に一致する。
三つ目。照明が落ちた二十秒間、二つのグラスを盆に載せて運んだのは蔵本だけだった。墨田と榎並は舞台上から動いていない。
墨田は自分のグラスではないと断言し、榎並はその口紅を塗ったことだけを認めた。言葉は互いを疑わせたが、蓮見は唇の色ではなく、跡の向きだけを追った。
蔵本は唇をなめた。
「本人が変な角度で飲んだのかもしれない」
「同じ唇が、同じ欠け方を鏡写しには残しません」
蓮見は二つの縁を、触れない距離まで近づけた。
「あなたは毒入りを雨宮さんの席へ置いた後、安全なグラスの縁を、その口紅跡へ押し当てた。だから転写された跡だけが内側にあり、亀裂まで左右反転して一致する。二杯を彼女が使ったように見せれば、狙って毒を渡した者を隠せると考えたのでしょう。内側の跡、鏡像の模様、暗転中に二客を扱えた人物。この三点が、縁同士を押し当てる転写という一つの仕掛けと蔵本さんを指します。二つのグラスを使ったのではなく、一つの唇の痕跡を二つへ増やしただけです」蓮見が言うと、蔵本の口元からだけ色が消えた。