再生回数あと一回

新堂直紀は出勤前、冷蔵庫にもたれて《リプレイ》の残数を確認する。安価な記憶契約では、一件の記憶を百回まで鮮明に再生できる。百回目が終わると原本も消える。それが唯一の制限だった。

妹の梓が残した最後の通話は、あと一回。

交通事故の直前、梓は直紀へ電話をかけていた。留守番電話には、駅前の雑踏と「兄ちゃん、今日さ」という声だけが残る。直紀は九十九回再生し、最後の一回を使えずに三年間守ってきた。声を思い出せなくなった日でも、残数の数字を見れば、まだ世界のどこかに妹がいる気がした。

母は月に一度、「まだ梓の声は残ってる?」と聞いた。直紀は残数を見せるだけで再生しなかった。母も、聞かせてとは言わなかった。一回を使えば二人とも救われるのか、二人とも失うのか、決められなかった。

その朝、警察から連絡があった。

事故を起こした車が見つかったが、所有者は運転を否認している。通話の背景音に、車載広告が読み上げた登録番号の一部が入っている可能性があるという。認証済み記憶を再生すれば証拠になる。ただし、解析は再生一回として数えられる。

容疑者は地元企業の役員だった。時効まで二日。直紀が拒めば、事故は証拠不十分で終わる。

再生室で、刑事が「音声だけ抽出します。妹さんの声を聞く必要はありません」と言った。

直紀は首を振った。最後なら、全部聞きたかった。

再生を押す。

夕方の風。踏切の警報。梓の息。

『兄ちゃん、今日さ、内定出た。先に言うと調子乗るから、母さんにはまだ――』

クラクションが割り込む。その奥で広告音声が車両番号を告げた。刑事が身を乗り出す。

直紀は数字を復唱した。梓は何か叫び、音が途切れた。

〈百回目の再生が終了しました〉

〈原本を消去します〉

刑事は礼を言った。逮捕状を請求できる、と。

帰り道、直紀は母へ電話した。

「梓、内定が出てたらしい」

母は泣いた。

『どんな声で言ってた?』

直紀は答えようとした。けれど、もう高さも、癖も、笑う前の息の音も出てこない。

証拠として記録された波形は警察に残った。兄の中からだけ、妹の声が消えていた。