勇者の地図にない道
魔王領から帰還した勇者アークェル・ヴォスは、王宮の床いっぱいに遠征地図を広げた。
「死の谷を抜ける安全路は、私だけが見つけました」
歓声が上がる。地図係ティセラ・オルムが、雪崩の跡と魔獣の巣を避けて引いた細い赤線を、勇者は自分の発見として語っていた。
「この女は私の線を写しただけです」
アークェルはティセラの肩を押し、地図から遠ざけた。
国王は赤線の終点を見つめた。
「よくぞ千人を生還させた。発見者の証として、遠征印を押せ」
勇者は待ちきれない様子で、腰の聖印を地図へ叩きつけた。
その瞬間、紙の山脈が立体になって浮かび上がった。
王国の遠征地図には、描線を加えた筆の動きと時刻が保存される。遠征印は褒賞のための飾りではない。帰還後の改竄を暴くため、全履歴を開く鍵だった。
赤線の上を、小さな光が走る。
――筆者、ティセラ・オルム。第一日、吹雪の迂回路を追加。
――筆者、ティセラ・オルム。第四日、毒沼を削除し高架洞へ変更。
――筆者、ティセラ・オルム。第八日、勇者案を破棄。理由、崖下に竜種反応。
最後の記録で、青い線が現れた。アークェルが最初に引いた道だった。線は安全路とは逆へ進み、巨大な裂け目で途切れている。
さらに地図が、彼の声を再生した。
『帰ったら赤線は私が見つけたことにする。地図係の署名は削れ。勇者の命令に逆らえば、置いていく』
アークェルは聖印を引き剥がそうとした。だが自分で押した遠征印が、彼の魔力を地図へ固定している。
「勇者には民を安心させる物語が必要なのだ!」
ティセラは初めて口を開いた。
「千人が生きて帰れた道に、嘘の名前は要りません」
それだけ言って、赤線の横へ自分の署名を戻した。
立体地図の赤線は、終点で新しい標識を立てた。そこに刻まれたのは《ティセラ路》の五文字だった。帰還兵たちは勇者の名を叫ばず、雪崩のたびに聞いた地図係の短い指示を思い出すように、赤線へ向かって頭を下げた。
宰相が、玉座脇に準備されていた勅書を開く。
「アークェル・ヴォス。軍功詐称と隊員脅迫により、勇者称号をただいま剥奪する」