十一階の閉ボタン
派遣社員は、部長と同じエレベーターに乗るのが苦手だった。
部長は「遠慮なく意見を」と言いながら、先に閉ボタンを押し、会話を終わらせる。
ある朝、二人が同時に閉ボタンへ触れた。
扉が閉じると体が入れ替わった。
その日の夕方、同じエレベーターが一階へ戻るまで元に戻れない。
部長の体になった派遣社員は、会議へ連れていかれた。
役員は笑顔で数字を求め、失敗すれば部下の責任、成功すれば経営判断だという顔をした。
部長の受信箱には、家族からの未読連絡と、部下の相談が何十件も並んでいた。
決断する側にも、断れば誰かの仕事が消える怖さがあった。
派遣社員の体になった部長は、入口に近い席へ座った。
会議資料を作ったのに、名前は記載されていない。
質問しても「正社員に確認します」と返され、社員食堂では会話が目の前を通り過ぎる。
意見を求められない人へ「遠慮なく」と言うことが、どれほど空虚か知った。
昼、二人は非常階段で会った。
「あなたの仕事、大変ですね」
部長が派遣社員の声で言う。
「どっちの意味ですか」
「両方」
派遣社員は、部長の体で決裁書へ署名するよう迫られていた。
自分が提案した企画だが、現場の人数では無理がある。
以前なら、採用されれば喜んだ。
今は責任を持つ手が震えた。
二人は企画を一週間延期し、担当者全員を会議へ呼んだ。
派遣社員も、元の立場に戻る前に発言した。
「この人数ではできません」
部長の口から言うと、役員は初めて聞いた。
夕方、エレベーターが一階へ着き、体は元へ戻った。
翌週から、部長は閉ボタンをすぐ押さなくなった。
意見を求める前に、
「発言しても不利益にならない形を作る」
と会議で宣言した。
派遣社員の名も資料へ入れた。
派遣社員は、部長を理解したから従うようになったわけではない。
無理な決裁には反対した。
部長も、すべての提案を採用しなかった。
ただ互いに、相手の椅子が楽かどうかを想像で決めなくなった。
朝のエレベーターで二人になる。
部長が開ボタンを押し、
「先にどうぞ」
と言った。
派遣社員は、
「次の会議で言うことがあります」
と答えた。
扉はすぐ閉じなかった。