十九階の風鈴

十九階の役員会議室から、鴻ノ巣雅紀が消えた。

監査報告を受けた財務責任者の鴻ノ巣は、午後四時に会議室へ入り、内側から施錠した。秘書の鯨井絢乃と監査法人の岬沢貴也が扉の前に残り、設備主任の八十島恭平は同じ階の機械室にいた。会議室の窓は全面ガラスで、「高層階だから開かない」と全員が信じていた。

十二分後、室内から椅子の倒れる音がした。八十島が管理鍵で扉を開けると、鴻ノ巣の上着と監査報告書だけが残っていた。扉前を通った者はいない。窓の外は地上七十メートル、隣の窓まで三メートル以上ある。

「自殺なら下にいるはずです」と岬沢は言った。地上にも庇にも人影はなかった。

私はブラインドを上げ、三つの痕跡を確かめた。

会議室の外壁は、鏡のように空を映していた。真下を見れば足がすくむが、鴻ノ巣は高所作業の安全担当を経験している。三人のうち、建物の外側をもう一つの廊下として扱えるのは、設備主任の八十島だけだった。

第一に、窓辺につるされた小さな金属飾りが、空調を止めた室内で一度だけ鳴ったと鯨井が証言した。

第二に、外側のガラスには、左右一対の新しい縦筋があり、清掃用ゴンドラのゴム縁と同じ間隔だった。

第三に、設備端末の運行記録では、清掃予定のない午後四時七分から十時まで、ゴンドラが十九階に停止していた。

八十島が「窓は開かない」と繰り返した。

「通常は、です。右端の一枚だけは保守用で、設備鍵があれば内側へ四十五センチ開く」

鴻ノ巣は窓を開け、会議室の外に待たせたゴンドラへ移った。八十島が機械室から下降させれば、扉を見張る二人の背後を通る必要はない。金属飾りは外気で鳴り、ゴム縁はガラスを擦り、運行記録は停止位置を残した。仕掛けは、窓外にもう一つの床を用意したことだけだ。

八十島は作業着のポケットを押さえ、目を伏せた。

私は眼下を見ずに言った。

「十九階だから窓は出口にならない。その常識が、鴻ノ巣さんのための階段になったんです」