十二本目の通りを越えて
港の一夜市場で、マレイナは「間に合う靴」を買った。
「会いたい相手まで、夜明け前に必ず運ぶ。ただし通りを一本越えるたび、その相手との思い出が一つ消える」
靴屋はそう言った。船が出るまで半刻。港までは十二本の通りがある。
キリルは今夜、北へ発つ。昼間、彼は最後に尋ねた。
「一緒に来る?」
マレイナは店も母も捨てられないと言った。彼は頷き、もう尋ねなかった。けれど閉店後、帳簿の間から彼が六年かけて返していた借金の証文を見つけた。店はとうに自由だった。母も知っていた。
追いかけて、今度は自分から選びたかった。
一つ目の通りを越えると、初めて会った日のキリルが消えた。二つ目で、彼に髪を切ってもらった夏が。三つ目で、二人で焦がした鍋の味が消えた。消えた箇所は穴にはならず、最初から何もなかったように滑らかだった。それが余計に恐ろしい。悲しむための輪郭さえ残らない。
四本目で、彼が病床の母へ毎朝花を運んだことを忘れた。五本目では、なぜ母が彼を信じたのか分からなくなった。
靴は止まらない。石畳を蹴るたび軽くなり、胸だけが重くなる。
六本目。彼が借金の半分を黙って払った日。
八本目。母の前で手をつないだ夜。
十本目。喧嘩して、別れたふりをした三日間。
記憶が抜けるたび、なぜ走っているのかが細くなった。けれど掌には証文がある。裏に、キリルの字で「彼女が自分で選べる日まで」と書かれている。
十一本目の前で、マレイナは街灯につかまった。
残っている思い出は二つ。今日の問いかけと、そのときの彼の顔。次を越えればどちらかが消える。十二本目まで行けば、両方ともない。
靴を脱げば、ここで終われる。彼を愛した記憶を持ったまま、船を見送れる。
汽笛が鳴った。
マレイナは靴紐を結び直した。
十一本目で、「一緒に来る?」という声が消えた。十二本目へ踏み出す直前、彼の顔だけが残った。寂しさを隠し、彼女の答えを奪わずに待っていた顔。
港の門が見える。向こうで男が彼女の名を叫んだ。
マレイナは最後の通りを越えた。
知らない男が、泣きながらこちらへ駆けてきた。