十二桁の匿名客
スーパーの購買データ売却会議で、生駒谷絃乃はPOS保守会社の若手担当として、匿名IDの仕組みを説明するよう求められた。買い手は健康食品メーカー。三年間のレシート二億件を、六億円で購入する契約だった。
スーパー側は、会員番号を乱数へ置き換えたため個人を特定できないと説明した。契約書にも「復元不能」と太字で書かれている。
絃乃はサンプルの匿名IDを一つ読み上げた。
「041782639154」
十二桁のうち最初の十一桁は、ポイントカード番号からハイフンを取っただけだった。最後の一桁は入力ミスを検出するための検査数字。乱数ではない。
営業部長は、カード番号だけでは氏名へたどれないと答えた。
しかし買い手には、共同キャンペーンのため会員照会APIを開放する別契約がある。十二桁を入力すれば、氏名、住所、電話番号が返る。絃乃は役員の許可を得てテスト会員を照会し、匿名IDから自分の氏名が表示される画面を見せた。
さらに売却データには、糖尿病食、妊娠検査薬、介護用品の購入履歴が時刻付きで並ぶ。健康食品会社が広告対象を選ぶには十分すぎる情報だった。
営業部長は、API側を停止すればよいと言った。
絃乃は契約書の付属覚書を出した。買い手には三年間、照会APIを無償提供するとあり、営業部長の電子署名が付いている。匿名化と再識別手段を同時に売る契約だった。
POS保守の追加発注を期待する上司は黙っていた。絃乃はシステム安全確認印をケースへ戻した。
「最後の一桁は、人を消すためではなく、番号を正しく人へ戻すための数字です」
健康食品会社の試験画面には、絃乃の購入履歴から「貧血対策」「妊活関心」と推定した広告案まで表示された。絃乃はそのどちらにも同意していない。カード番号を一桁も変えず匿名と呼んだ結果が、目の前の自分だった。
スーパー社長が六億円の決裁書を閉じた。十二桁の匿名客は、名前のないふりをしてレジを通れなかった。