十八時の消灯
千景はホテルの予約課で、頼まれていない仕事まで拾う癖があった。共有フォルダの名前が乱れていれば整え、誰かの返信が遅ければ下書きを作り、給湯室の砂糖が切れれば補充する。気づける自分がやるべきだと思っていた。
同じ島に座る片瀬岬は、必要以上に働かない人だった。無口で、定時になると机の照明を消す。頼まれた仕事は正確だが、誰かの「できれば」に反応しない。その態度を、千景は少し冷たいと思っていた。
繁忙期の火曜、岬が退勤前に一枚のカードを机へ滑らせた。
『今日、誰にも頼まれていない仕事を一つしない』
「そんなの、あとで誰かが困ります」
岬はカードの「一つ」を指で叩いた。全部やめろとは書いていない。理由も説明しないまま、十八時に照明を消して帰った。
その日だけでも、千景は会議室の椅子を揃え、別部署の宅配便を受け取り、誰かが置き忘れた数字を表へ入力していた。どれも数分で終わる。数分だから断れず、積み重なると自分の夕方がなくなった。誰かに褒められるわけではないのに、やめれば見捨てたような気がした。
十九時前、千景は自分の予約処理を終えた。共有フォルダを見ると、後輩が作った団体客リストのファイル名が規則と違う。直すのに三分。開けば、並び順も気になるだろう。いつものようにマウスを動かしかける。
カードを裏返してみても、何も書かれていなかった。
後輩はまだ勤務中だった。千景が黙って直せば、明日も同じ名前で保存する。頼めば角が立つかもしれない。放置すれば、検索に少し時間がかかる。それだけだ。
千景は後輩へのチャットを開いた。
『ファイル名、明日の朝に規則を確認して直してもらえますか』
送ると、すぐに「了解です」と返ってきた。責める言葉も、困った顔もなかった。
机の上には、補充されていないクリップの箱も見えた。明日で足りる。千景はそれを見たまま立ち上がった。
十九時を過ぎたフロアで、自分のデスクライトだけが点いている。彼女は初めて、誰かの仕事を残したまま、そのスイッチを切った。