十分後の遺影
黒瀬緋沙は、亡くなった写真家・野呂至孝の仕事場を整理していた。
師匠は遺影を嫌った。
「死んだ人間を一枚に決めるな」が口癖で、自分の葬儀にも写真を置くなと遺言した。
そのせいで祭壇には花とカメラだけが並び、親族からはずいぶん不評だった。
午前一時、緋沙が試しに空の椅子を撮ると、画面には何も写らなかった。
十分後、カメラが勝手に音を立てた。
画像を開く。
椅子に野呂が座っていた。
「遅刻ですか」
緋沙が言うと、野呂は画像の中で口を尖らせた。
もう一枚撮る。
空の机。
十分後、野呂が机に頬杖をついた写真へ変わった。
緋沙は次々にシャッターを切った。
鏡の前、暗室の入口、散らかった本棚。
野呂は十分遅れて現れ、毎回ひどい顔をした。鼻をほじり、あくびをし、レンズに背を向ける。
「一枚くらい、まともにしてください」
返事はない。
写真の中だけの幽霊だった。
緋沙は二十歳で弟子入りし、十五年助手を務めた。
独立しろと何度も言われたが、「まだ学ぶことがある」と断った。
本当は、自分の写真に値段がつかないのが怖かった。
野呂が入院した日も、緋沙は代わりに撮影へ行った。
最後の電話で、師匠は言った。
『お前の写真を撮れ』
意味がわからないまま、聞き返す前に通話は切れた。
緋沙は三脚を立て、セルフタイマーを押した。
椅子に座り、レンズを見た。
十分待つ。
画面には緋沙一人しかいなかった。
「なんで」
もう一度。
やはり一人。
腹が立ち、緋沙はカメラへ向かって怒鳴った。
「自分で撮れって言ったくせに、見もしないんですか」
三度目のシャッターを切る。
待つあいだ、仕事場の時計ばかりが大きく聞こえた。
十分後、画像が変わった。
野呂は写っていない。
代わりに、椅子の緋沙が笑っていた。
撮影した瞬間、緋沙は笑っていなかった。
泣きそうな顔で怒っていたはずだ。
けれど写真の自分は、少し呆れたように、師匠そっくりの片頬だけの笑みを浮かべている。
緋沙はしばらく画面を見た。
それから画像の題名を《助手、卒業》に変えた。
夜明け前、最後に仕事場全体を撮った。
十分後、写真には空の椅子と机と本棚だけが写っていた。
野呂はもう現れなかった。
緋沙はその一枚を遺影にせず、初めて自分の個展へ出した。
値札も自分で決めた。
写真は売れなかったが、会場の隅で緋沙は、十分待たずに笑えた。