十年越しの出汁巻き卵

 葛西倫子は、駅前の鳩を見ると、昔の弁当を思い出す。

 元恋人の直哉は、朝が早い倫子のために、出汁巻き卵をよく作った。二人が別れたのは、彼が転勤を決めたあとで報告したからだ。相談されなかったことが悔しくて、倫子は「私の好みなんて何も知らなかった」と言い捨てた。

 十年後、引っ越しの荷物から、その頃の弁当包みが出てきた。内側に油染みと、小さな紙切れが残っている。

〈倫子用。砂糖なし。出汁濃いめ。冷めてから切る〉

 その夜、倫子は卵を三つ割った。

 出汁を入れすぎて崩れ、二度目は塩辛い。窓辺では、毎朝来る灰色の鳩を倫子が勝手に灰次と呼んでいた。灰次は欄干を二歩進んでは、首を振ってこちらを見る。

「簡単そうに食べてたけどね」

 倫子は三度目の卵液を流した。

 直哉の卵焼きは甘くなかった。倫子が甘いおかずを苦手だと、付き合い始めの頃に一度言っただけなのに、彼は覚えていた。転勤の決め方が正しかったとは今も思わない。だが、何も知らなかったという自分の言葉も、正しくはなかった。

 火を止め、急いで切りたいのをこらえる。湯気が落ち着くまで待つと、形は崩れず、断面から出汁がうっすら滲んだ。

 一切れ食べる。卵の甘さの奥に、鰹の香りがある。記憶より少し硬いが、朝の弁当箱に近かった。

 倫子は紙切れの写真を撮り、長く使っていなかった連絡先へ送った。

〈今さらだけど、作れた。あのとき、何も知らないなんて言って悪かった〉

 返事は翌朝だった。

〈僕も、相談せず決めて悪かった。出汁はもう少し薄くていい〉

 それだけで、十分だった。

 灰次が欄干から飛び、朝の空へ混ざっていく。倫子は残りを弁当箱へ詰めた。蓋を閉じる直前まで、温かな出汁と卵の匂いが立ち、十年前の朝を、責めるでも戻すでもなく包んでいた。

 その日の昼、倫子は自分で作った弁当を公園で開いた。灰次は少し離れたベンチの下を歩き、落ちた米粒だけを拾う。昔の弁当と同じ味ではないのに、蓋を開ける手はもう重くなかった。過去へ返すのではなく、今日の昼へ持ってこられた味だった。