午前七時の万国旗

文化祭の朝、校門前には誰もいなかった。

実行委員の蓬田朱弦は、鍵を借りて一人で中庭へ入った。昨日までの雨で地面は濡れ、渡り廊下に吊った万国旗は半分ほど絡まっている。

開場まで一時間。

朱弦は脚立を運び、旗の紐をほどき始めた。

三か月間、実行委員会は揉め続けた。予算、騒音、食品衛生、企画の抽選。クラスでは「祭りが好きな人」と思われていたが、本当は人混みも大声も苦手だった。委員になったのは、くじで負けたからだ。

脚立の上で、濡れた旗が頬へ張りつく。

「それ、逆」

下から声がした。

清掃委員の鞠谷朔良が、ほうきを持って立っていた。

「何が」

「フランス。青が反対」

「向きあるの?」

「あるでしょ」

「風で裏返る」

「じゃあ風に注意してもらう」

朔良は脚立を押さえた。

二人で一本ずつほどく。国名のわからない旗も多い。朱弦が適当に答えると、朔良がスマートフォンで確かめた。半分は間違っていた。

校舎の窓に明かりがつき始める。調理室から甘い匂いが流れ、体育館ではマイクの試験音が鳴った。

七時四十分。

最後の紐が結べない。雨で膨らみ、指が滑る。

「もうテープでいい」と朱弦が言う。

「三か月準備した人の台詞?」

「三か月やったから、あと二十分しかないの」

「じゃあ結ぶ」

朔良が手を伸ばし、朱弦の指ごと紐をつまんだ。二人の爪は冷たく、濡れていた。

結び目ができる。

その瞬間、朝の風が中庭を抜けた。

絡まっていた旗が一斉に開く。赤、青、黄、緑。曇り空の下で、それぞれ違う方向を向きながら、同じ紐の上で揺れた。

朱弦は脚立の上から校舎を見回した。

廊下を走る人。段ボールを運ぶ人。鏡の前で衣装を直す人。誰も実行委員会の議事録を知らない。貼り直した案内板も、追加した消火器も、たぶん見ない。

それでよかった。

八時、校門が開いた。

客が入ってくると、朱弦は受付へ走った。朔良はほうきを肩に担ぎ、別の方向へ行った。

「文化祭、好きになった?」と別れ際に訊かれた。

「まだ始まってない」

「じゃあ終わったら」

「忘れてたら聞いて」

文化祭の記憶は、混雑した昼でも、閉会式の拍手でもない。

朱弦が一番鮮明に覚えているのは、誰にも見られていなかった午前七時、濡れた万国旗が初めて風を受けた瞬間だった。