午前五時のベル
深町黎は、ホテルの制服を嫌っていた。襟が硬いからでも、スカートが動きにくいからでもない。笑顔まで備品のように管理される気がする、と言った。
村瀬千鶴は制服が好きだった。袖を通せば、私生活で何があってもフロント係になれる。黎が退職を決めたと聞いた夜、千鶴は「感情と仕事を分ければいい」と言った。黎は「分け続けて、どっちが自分か分からなくなった」と返した。
最後の夜勤は満室だった。午前五時、ベルが鳴り、杖をついた女性客がロビーへ出てきた。始発の空港バスに乗る予定だが、予約した介助タクシーが来ないという。大きな旅行鞄が二つ、足元に並んでいた。
規定では、館外での荷物運搬はベルスタッフの担当だ。だが早朝の担当者は別の客室へ行っている。黎はタクシー会社へ電話し、千鶴は代車を探した。どこも二十分以上かかる。
「バス停まで、七分です」
黎が言うと、千鶴は首を振った。
「フロントを無人にできない」
「私はもうすぐ辞めるから、注意だけで済む」
「そういう使い方をしないで」
黎はむっとした。千鶴は黎を守りたいのではなく、規則を守りたいだけに見えた。
千鶴は内線で警備員に五分だけフロントを頼み、自分のパンプスを脱いだ。ロッカーから非常用の平たい靴を二足持ってくる。一足を黎の前へ置いた。
「二人なら、往復しなくて済む」
女性客には杖を持ってもらい、黎と千鶴が鞄を一つずつ引いた。黎は速く進み、千鶴は段差のたびに止まる。互いの歩調には合わせなかったが、客の歩幅からは離れなかった。
バス停へ着くと、空が薄く青くなっていた。運転手が荷物を積み、女性客は何度も頭を下げた。黎は笑わずに手を振った。千鶴は制服どおりの角度で一礼した。
帰り道、黎が言った。
「その靴、返すね」
「洗ってからでいい」
「退職日までに?」
「その後でも、宅配で」
二人は将来の話をしなかった。ホテルへ戻ると、警備員の前にチェックイン客が一人待っていた。黎と千鶴は同時に制服の襟を直し、別々の表情で同じカウンターの内側へ入った。